2015年1月8日木曜日

単語は発想、文章は論理

どんな言語であっても、単語(言葉)はアイデアや発想の表現であり、文章は論理の表現であることに変わりはないようです。

特に、日本語においては表意文字である漢字を多用しているために、文字にして書いておくことが有効な場面が多数あります。

表音文字しか使用しない欧米型言語に比べると、口頭表現以外での表現力に大きな特徴がある言語となっています。

また、文字による表現の豊かさと正確さが、口頭表現における音の少なさからくる曖昧さや省略性を補っているということもできます。


単語の羅列は、そのままアイデアフラッシュにつながることになります。

一般に言われるところの発想に当たります。

発想は、思考活動の一つですが、拡散することに重きを置いた活動となります。

思いつくことですので、ゼロから思いつくことが一番大変な労力を伴う活動になります。

ある言葉からの連想によって、拡散していくことが日本語の感覚が自然に生かされる活動となります。


連想の刺激のきっかけは、大きく分けて二つのものがあります。

一つは言葉としての音としてのものであり、もう一つは視覚による文字によるものです。

どちらとも、意識して行う連想と条件反射的に行われるものがあります。

ここにおいては、発想の方向性を意識しない限りにおいては、刺激のもとになった言葉と連想された言葉の関係性は考えられていません。

記憶や感覚が中心となっており、出てきた言葉同士の関係性は意識しない方が発想がうまくいきます。


発想が苦手な人は、連想して出てきた言葉の意味や出てきた言葉同士の関係性などを考えてしまうために、出てくる言葉が乏しくなってしまうことがあります。

自然な感覚に任せて、何処までも拡散させてしまうことの方がうまくいきます。

実は、この状態は日本人にとってはとても落ち着かない状態となっています。

日本語の感覚は、何度か見てきているように環境との適応がその基本にあります。

どうしてもバランス感覚が働いてしまうのです。

関係性を確認することによる秩序を求めてしまうのです。


ブレインストーミング(ブレスト)をしていても、どうしてもまとめたがる人がいます。

大きな拡散発想が苦手なのが日本語の持つ特徴の一つでもあります。

発想を豊かにするためには、無秩序の状態を放置できる我慢が必要になるのです。

その我慢も人によって限界が異なりますので、時間を決めて拡散状態を維持することが必要になってきます。


複数で発想をするときに、誰かがまとめる方向に走り出すと、一気にその方向に向かってしまうことがよくあります。

もともとが、身秩序の状態を感覚的に嫌いますので、すぐにまとめる方向に意識が向いてしまうことになるからです。


単語が発想であることに対して、文章は論理です。

日本語の感覚における論理とは、関係性の確認のことです。

発想として浮かんだ言葉同士の関係性を確認することが、自然に行われる活動です。


ところが、無秩序に飛び出した言葉同士は、それぞれの言葉同士は一つの関係で説明がついても、同じ関係性で説明できる言葉はそれほど多くは存在しません。

言葉が違えば、関係性が異なるともいうことができます。

文章は、言葉(単語)同士の関係性を表現するものと言えます。


一対一の関係性は、そのまま他の言葉には当てはならないことの方が多くなります。

そのために、まとめるためカテゴリーを用意しようとするのです。

欧米型言語ではこの感覚が優れています。

いわゆる、分類という作業は、欧米型言語の最も得意とするところです。


日本語感覚では、分類よりも関係性が重視されます。

複数の言葉をまとめる活動をしますと、要素としての言葉同士には関係性を見出せますが、その関係性は他の要素とは維持できていないことがほとんどです。

そこで、環境という架空のカテゴリーを共通領域として無意識に設定ることが起こるのです。


日本語感覚では、それぞれの要素が環境とどのような関係にあるのかを意識することは自然にできることです。

そして、環境に対して似たような関係を持っているものをまとめようとするのです。

したがって、分類としての境界線が曖昧にならざるを得ないのです。

厳格に境界を決めてしまうと、そこに存在する要素はひとつになってしまうからです。

複数の要素をまとめようとすると、分類としての境界線を緩やかなものにせざるを得ないのです。


日本語の感覚による文章は、関係性の表現になります。

それに対して、欧米型言語による文章は、状況の説明や説得のための表現ということになります。

関係性を表現するためには、それぞれ要素が環境とどのような関係になっているのか、その環境との関係性について理解しなければなりません。

二つの要素の関係を表現しているつもりが、実際には意識しないでも二つの要素がそれぞれ環境とどのような関係になっているかを表現していることになるのです。


欧米型言語では、この環境のことを説明しないと二つの要素の関係性が理解しにくくなっています。

日本語感覚では、二つの要素の関係を表現していても、自然と環境の共有ができるものとなっています。

それが日本語の感覚の根本にあるからなのです。


分類は、何らかの基準を設定すれば、Yes or Noで行うことが可能ですが、関係性についてはそうはいきません。

何度か、利用してきた下の写真を見てください。

ウシの仲間はどちらですか、という問題です。


日本語を母語として持っていても、欧米型言語の環境が長かったりすると、ニワトリを選ぶ人が出てきます。

日本語の感覚に自然に従っている人は、ほとんど牧草を選ぶことが多いようです。

少し考えて、ニワトリを選ぶような人は、無理に欧米型言語の感覚に合わせなければいけないと教え込まれたり、思い込んでいる場合も多いようです。


日本語の感覚での論理は、関係性の確認を表現することが合っているようになっています。

状況を説明したり、説得するための論理にはあまり合わないようです。

日本語の感覚を自然に使って行なっていることが、現実に求められている表現と異なってくると、まさしくストレスを感じることとなってくるのです。

その前に、必ず違和感や不自然さを感じているはずなのです。


この違和感や不自然さをもっと大切にしていきたいですね。

日本語感覚では、そもそも大きな目標を掲げて最短距離を走ることが苦手にできています。

日々の環境に適合しながら、小さなことをいくつも変化させて、更に変化する環境に対応することが得意にできています。

撰べる環境は、はるかに大きく無限にまで広がってきました。

日本語の感覚は、変化に本当に強いものです。

変化しているのが当たり前という前提を持っているからです。

しかも、全く意識することなしに、日本語を持っている人がすべて持っている感覚です。


欧米型言語を母語として持つ人と、話ができるようになると、こんなことにも気がつきますね。

そのためにも、やっぱりある程度の英語は必要なのでしょうね。




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