2015年1月7日水曜日

無理のない日本語発想はメモが不要

日本語が本来持っているものの捉え方に沿って考えていくことは、母語としての日本語を持っている私たちにとっては極めて自然な行為となります。

そこで行われている論理や言葉の選択も、自然な日本語感覚によって行われていきますので、疑問や矛盾を感じる間もなくスムースに進んで行くことになります。


ここで、無理な理屈や不自然な論理が入ってくると、これを意識して行わないといけなくなります。

すると、自然な感覚とは異なりますので、記憶しなければいけないという意識が働いて、メモを取ったり記録に残すという行為が必要になります。

言語が本来持っている自然な考え方に沿って行われている知的活動は、記録する必要もなければ記憶の必要もないものとなっているはずなのです。


日本語が持っているものの捉え方の姿は、環境に対しての自己の適応です。

どの環境を対象とするかが違うだけのことであって、同じ人であっても環境が異なれば適応する内容も異なるのが当たり前だと理解しています。

また、環境はふたつとして同じものはないことを理解していますので、対象とする環境も時や人によって変化するものであることをわかっています。


日本語が持っている感覚のなかで、中心となっているものは、共生とそのための自己適応努力です。

その原点は、自然との対峙の仕方にあります。

広い意味で言えば、自然の中で生き抜いていくために、自分をどのように変化させて対応していくかということになります。
(参照:日本語と自然との関係

人の持っている知の力によって、個の概念を生み出した欧米型の言語の持っている感覚と一番違うのがこの点です。

個の感覚の強い欧米型言語の感覚においては、どうしても違うことに対しての感覚が鋭くなります。

違いを見つけてその違いを鮮明にしようとすることが、自然に行われるようになります。


日本語の感覚においては、共生と同化に対しての感覚の方が勝っています。

対象となる相手や環境は常に変化をしていますので、相手や環境に合わせて対応する自分も常に変化しなければならないことを自然に感じ取っています。

したがって、人を評価したりするときにも、限定された分野における実績や能力よりも、どうしても全人間的な評価で見てしまうことになります。


人間的な評価とは厳格に区別しながら、アウトプットのみを客観的に評価することができる、欧米型言語の感覚とは大きく違うところとなっています。

アウトプットに数値的な基準を設定して、厳格にその評価を運用していく方法は、日本語が持っている感覚には合いにくいものがあります。

人事考課などで、どうしても期待値や持っている能力についての評価を加えて、可能性をもその評価の対象とする方法は、きわめて日本的な感覚であるということができます。


日本人が日本語の持っている感覚に自然に従って行っている知的活動においては、思考や発想上の無理がありませんので、メモや記録を残さなくとも何度でも同じように行うことができます。

与件に対しての結論が同じになるということではありません。

与件は常に変化しており、与件の存在する環境も常に変化していますので、同じ結論になることの方がおかしいはずです。

行なってきたことを確認するためには、記録は必要になりますが発想や検討の思考の活動のためには、思考を刺激する目的以外の記録としてのメモは必要ないことになります。

記録やメモを必要と感じること自体が、その発想が日本語の感覚として自然でないことを表していると思われます。


不自然さが不安になるのです。

不安は原因を解消したいものです。

その場で原因がわからないので、分からなままに受け入れるのですが気持ちが悪いのです。

どこかで気持ち悪さを解消したいために記録を残したくなるのではないでしょうか。


自然に逆らっているから、不安を感じてしまい、無理をすることになります。

そのために、記録を残しておかなければならなくなるのです。


今の日本には、メモや記録が必要なことばかりです。

そのことを法律で義務化していることもたくさんあります。

何をやったのかを確認するための記録は、公正性の確保のためには必要だと思われます。


「記録しておけ」と言われたことで、役に立ったことがありますか?

まずは、本来的に日本語が持っている感覚と、ものの捉え方を理解しておく必要がありそうですね。

日本語の自然なものの捉え方がどんなものかわかっていないと、自然に発想すること自体が分からないし、判断ができません。


書き出すという行為は、発想を助ける作業や思考をまとめる作業としてはとても効果的なものです。

備忘録的にメモが必要だと感じた時は、そのこと自体が自然な日本語の感覚に合わないものとなっている可能性が高いと思われます。

自然ならば、いつでも行うことができるからです。

自然でないと感じているから、何かしらのメモ的なものを必要だと感じているのです。


メモに残したことによって、余計に忘れやすくなります。

ましてや、メモする場所を習慣化していないと、メモを取ったことは覚えていても、何をメモしたかを忘れることがあります。

メモを習慣化していないと、何処にメモしたかすら思い出せません。

二度と見ることのなかったメモはどれだけあるでしょうか。


他の言語においては自然な感覚となっているものでも、言語が変われば決してしそのまま自然なものとはなりません。

特に日本語は、他の欧米型言語の感覚とは、本質的な部分で大きく異なっているものです。

それを論理として理解し、技術として記憶し、行動として行おうとしても、日本語感覚では無理なのです。


母語として持ってる言語の一番自然な形での発想が、その言語を使っている人にとっては一番理解しやすいものとなっているはずです。

そこに理屈はありません。

感覚として、感じるだけのことです。

日本語の持っている感覚を、もっと大切に感じたいですね。





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