知的活動は、基本的には極めて個人的な活動ですので、そこで使用する唯一のツールである言語についても、きわめて個人的な言語でも構わないことになります。
ところが、知的活動にかかわらず人の活動においては、一人で完結するものはほとんどありません。
何らかの形で他者との協力や共有によって、さらに質の高いもの効果の高いものとしていくことが求められます。
行なっている活動においては極めて個人的なものであっても、それを共有することによってその個人によって異なる多様性がさらに生かされることになります。
知的活動のうちの認知活動や思考活動を共有することはできません。
それはあくまでも個人的な活動です。
しかし、認知活動や思考活動の内容や結果を表現活動によってアウトプットすることによって共有することは可能です。
表現活動も個人的な活動の部分が大きいですが、表現活動の目的に応じては共同活動をすることができるものです。
ましてや、表現活動の目的の大きな部分は、相手に理解してもらうことになりますので、自分の持っている個人的な言語よりも、伝える対象の言語を意識することになります。
自分よりもより相手の言語に対しての理解の深い人の協力は、欠かすことができない協力となってきます。
母語としては同じ日本語を持っていたとしても、一人ひとりの持っている日本語は微妙に異なっています。
また、社会生活における同一環境が長くなると、その環境における専用語的なものが感覚として染みついていくことにもなります。
ましてや、伝えようとする相手の言語そのものが違うものであれば、一段と相手の言語について理解する必要が出てきます。
理想的なのは、伝える相手の持っている言語によって表現することになります。
この行為は、とんでもなくアウトプットの質を高めることにつながります。
まずは一つ目として、伝えて理解してもらいたい内容を、自分の言語でしっかりと理解していることが必要になります。
ところが自分の言葉で理解していることは、感覚として理解していることにつながっており、理解している内容を表現できることとは直接的には結び付きません。
分かっているつもりだったことが、いざ表現してみたら相手に伝わらなかったことはありませんか。
個人的な活動としての認知活動や思考活動は、自己確認しかできない活動となっています。
人の目から見てもらったり確認してもらうためには、活動内容や結果についての表現活動をしなければなりません。
共有をしてもらうために、表現活動をしなければならなくなるのです。
何らかの形でアウトプットをしなければなりません。
自分の言語でアウトプットをすることは、自己確認の範囲を出ていないことになります。
共有するためには理してもらうことが前提になります。
そのためには相手の言語に対する理解が必要です。
本気で理解してもらうためには、相手の理解を確認する必要があります。
表現活動の目的には、大きく二つのものがあります。
一つは、自分の理解を確認する個人的作業としてのものです。
この場合は、自分の持っている言語だけでの表現で行われます。
これは、独特な表現を持つ作家などの活動も含まれます。
個人的作業としての表現活動にに対して、評価する人がいるだけのことですが、このことで人気を博した作家が、変に読者を意識してしまったためにせっかくの表現を失うこともよくあることです。
もう一つは、何かを伝えて理解してもらう活動です。
これは、理解してもらうことが目的ですので、相手の持っている言語での表現が理想になります。
さらに理解の内容についての相互確認ができることが望まれます。
使用する言語によって、同じ言葉であっても伝わる感覚が異なります。
同じ言葉に対しての感覚も、一人ひとりが異なることになります。
母語を同じくしていれば、共通する感覚は多くの領域にわたりますが、言語が異なれば全く異なる感覚だということができます。
特に日本語は、先進言語の中では極めて感覚的な特徴のある言語です。
無理にでも、相手の言語を使ってみるという試みは、単なる言語の置き換えを越えた、感覚を伝えることになります。
微妙な言葉の違いや間違えを越えた理解を産むのはこれがあるからだと思われます。
慣れないまでも、英語を使って蓮場合には身振り手振りが大きくなります。
知らない間に、「I」や「You」を意識しています。
結論である動詞を真っ先に捜しています。
伝えようとする思いや理解してほしいと思う気持ちが強いほど、相手の言葉を探そうとします。
そのやり取りが更なる理解を深めることにつながります。
相互理解が可能な場面はとても貴重なもののです。
不安を持ちながらも使う相手の言語は、その場の相互理解を結果的には高めることになるのです。
同じ日本語であっても相手の持っている日本語は、自分の持っている日本語とは違うという感覚を常に持っていることが大切になります。
同じアウトプットであっても、使う言語によってその質が変わっていることは、アウトプットをしている本人には気がつきにくいことです。
自分が思っている以上に、言語による感覚の違いは大きなものということができます。
日本語には、音としてのアウトプットはひらがなしかありませんが、それを聞いて理解する側にはひらがな以外にカタカナや漢字やアルファベットに置き換える作業があります。
また、音そのものが持っているイメージや感覚もあります。
アウトプットにする言語に気を使うことは、それだけ相手に李かしてもらおうとする姿勢の表れであるということができます。
それだけでも、自然に伝わり方が違ってくるのでしょうね。
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