2015年1月5日月曜日

Yes or No が合わない日本語

多数決が絶対の決定方法であるにもかかわらず、少数意見の尊重ということも同程度に教え込まれます。

日本語には「Yes or No」は合いません。

はっきりと「Yes or No」意思表示することすら、はばかられる感覚がもともと備わっているのです。

歴史文化的に、明確な自己主張や意思表示はよくないこととして継承されてきているのです。
(参照:「ことだま」と「ことあげ」


それは、環境との共生を第一に考える日本語が持っている特徴です。

「Yes」を意思表示することは、心の底から素直にできますが、「No」を表示することが難しいのです。

それは、表示すべき対象が相手のアウトプットになっていないからなのです。

相手そのものが意思表示の対象となってしまうから、難しく思えるのです。


相手そのものは、環境そのものでもあります。

日本語は環境との共生を考えて、自分を適応せさていく言語となっています。

環境を変える言語とはなっていないのです。


どうしても都合の悪い環境であれば、その環境を飛び出して違う環境の中へ自分を置くことまでも考えるのが日本語による思考です。

このことをして「逃げる」と表現することもあるようですが、そんなマイナスなイメージは持たないほうがいいと思います。

自分が適応すべき環境を選ぶのは自分ですので、適応したくない環境やどうしても適応できない環境には、無理をしてしがみつく必要がありません。

環境は絶対的なものではありませんし、常に変化をしているものです。

合わないと思ったらいつでも環境を選びなおせはいいのです。


さて、「Yes」は合うが「No」が合わない日本語には、二者択一よりももっと似合う場面があります。

それは、三すくみの場面です。

三すくみの典型はジャンケンです。

二者間では明確に勝負がつきますが、三者の間では絶対勝者は存在しません。

また相手が変われば、自分自身が勝者にも敗者にもなります。


パーの自分は、相手がグーであれば勝ちですし、相手がチョキであれば負けになります。

日本語は勝負にはあまりこだわりません。

時の運という言い方をよくします。

しかし、その勝負の場面に至るまでの過程には大いにこだわります。


「No」は相手に対しての全面否定をイメージしてしまいます。

日本語では、相手のアウトプットに対して評価をするという習慣がありませんので、どうしても全人格な相手を対象として見てしまいます。

その結果、環境の一部である相手を否定することになってしまうことを回避しようとするのです。

環境は適応すべきものであり、コントロールして変化できるものではないと考えているからです。


実は日本語は、「Yes or No」が合わないのではなく、明確な「No」を必要としてないものとなっているのです。

すべてをあるがままに受け入れることに慣れていますので、理解できようとできまいと一旦はそのまま受け入れることができるのもそのためです。

その方が自然に知的活動ができるようにできているのです。


明確な「No」を表示してしまった場合に、その表示をした対象(者)に対する扱いに迷ったことはありませんか?

どの様にフォローしようか考えたことはありませんか?

日本語が本来持っている感覚の中には、明確な「No」は存在しないのではないでしょうか。


このことを他の言語話者から見ると、自分の意思を表明しないとか曖昧だとかはっきりしないだとか映るのではないでしょうか。

彼らの言語における「No」は、私たちが思っている「No」よりもずっと軽いものです。

場面や言い方にもよりますが、日本語によるはっきりとした否定とはかなり開きがあると思っていいと思います。


彼らの言語で組み立てられた論理を日本語で理解することは、比較的簡単にできます。

彼らの言語が説明言語ですから、わかり易くなっているからです。

しかし、その論理がそのまま日本語の感覚に当てはまるかどうかは別の問題になります。

ほとんどの場合は、当てはまりません。

それでも理解することは出来てしまうのです。


理解できてしまえば、実行することができてしまいます。

その結果の都合のいいところだけを利用してきたのが、近代日本の文明だと思われます。

それが先進文明の一端を担っていることだと思います。


「No」が合わない日本語は、これからどんなギャップを産んでいくのでしょうか。

外交交渉も難題が山積しています。

英語との違いだけでは対処できない問題もたくさんあります。

日本語にとっては、ますます難しい時期に来ているのかもしれませんね。




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