2015年1月28日水曜日

心優しき日本語

日本語の曖昧さや不正確さが指摘されることがよくあります。

日本語話者同士では全く気にもならないことですが、少し日本語が分かった他の言語話者から見るとそのように感じることがあるようです。


ところが、彼らのメソッドや技術の紹介の日本語翻訳書などになると、まるで反対のことが起きていることがあります。

原著よりもより正確に表現されたその日本語による翻訳は、原著者をも驚かせることもあります。

そのことからは、日本語自体が決して曖昧であったり不正確であったりするのではないということが言えます。

それ以上に、日本語は1000年の歴史を越えて継承されてきた独自言語に、欧米の文化先進国の言語と感覚を取り込んだ、とんでもなく表現の豊富な言語なっているのです。


このブログでも何度も取り上げた事例に、ネイティブ同士の会話を理解するのに必要な単語数があります。

もちろん音としての言葉が聞き取れることが前提となりますが、ネイティブ同士の会話の90%以上を理解するために必要な単語数は以下のようになっています。

フランス語・・・約 2,000語
英語   ・・・約 3,000語
日本語  ・・・約10,000語

欧米言語話者から見た時に、世界で一番難しい言語だと思われている理由の一つがここにあります。

また、漢字自体がとても高い造語能力を持った文字となっているために、いたるところで新しい言葉が生まれています。

極めて正確な表現ができるのに、あまりの表現の豊かさのために適格な表現を選ぶことがかえって難しくなっているのかもしれません。

感覚的に言葉を選べる母語話者でないと、とてつもない難しさを感じることになっているのではないでしょうか。


日本語が曖昧だと言われるもう一つの大きな理由があります。

それは対人表現において現れるものです。

そして、これは日本語な持っている独特の感覚によるものであり、他の言語が持っている感覚と大きく異なっているところでもあります。


それは表現する対象や相手が人間となった時に現れるものです。

文章として書物にしたり、報告書として表現したりするときにはまったく意識されないものです。


日本語の持っている感覚として自然とのかかわりについては今まで述べてきたとおりです。
(参照:日本語と自然との関係自然とのかかわりで見た言語文化 )

人に関することについては、その環境との関係において理解できないとうまく表現ができないのです。

変化し続けている環境の中で、日本語は常にその変化に適応して共生していこうとしている自己を感覚として持っているのです。

共生しようとする環境は、ある程度は自分で選択することができます。

しかし、環境によっては自分ではどうすることもできずに、適応だけしていかなければならないものもあります。


人の行なったアウトプットについても、その人の一部として捉えている感覚もあります。

アウトプットだけを切り離して評価することができないのです。

人を理解することにおいて、アウトプットや実績では理解できないのです。

その人と自分との関係において理解しないと、安心できないのです。


自己にとってその人は環境そのものでもあるのです。

日本語の感覚は関係性の感覚なのです。

その人が共生しようとしている環境とその人との関係を理解しないと、安心していられないのです。

更にはその人を含めた環境と、自己との関係を理解したうえでないと、主張や意見を交わし合うことが難しいのです。


そのために、そこまでの理解ができていない場合には、手探りの表現にならざるを得ないのです。

そこでの主張や意見は、的外れや勘違いである可能性が高いのです。

そして的外れや勘違いは、相手に対して失礼にあたるという感覚があるのです。


相手と環境の関係が理解できて、自己との関係が確認できた時に初めて本気の意見交換や主張ができることになります。

そこまでの理解は、普通の状態では出来上がることがありません。

必ずどこかに、不安定なものを抱えていることになります。

さらに、理解ができた状態では、言語以外でのコミュニケーション領域がとても大きなものとなっています。

このことが環境の共有と言えるのではないでしょうか。


そのために断定的な意見や主張はしないのです。

それが曖昧さとして映るのです。

相手に礼を失することのないように感覚的に行なっている、心優しき活動なのです。


相手について理解できている部分が少ないほど、優しく丁寧に曖昧になるのです。

それによって、少しずつ探りながら関係性を確認しているのです。

人も自然の一部、環境の一部であるという感覚ですので、自分が相手に適応しようとする活動になります。

そのためには、相手の関係性を理解することが必要になります。

自己を中心として、自己の影響を与えることができる環境を大きくしていこうとする欧米型言語の感覚とは大きく異なるものと言えるでしょう。


相手が共生しようとする環境がどのように変化しているのか、相手はその環境にどのように適応するのか、それが相手を理解することだと思われます。

日本語の曖昧さは、相手に対する優しさの表れであり、理解しようとする行動の現れたものだと思われます。

日本語の感覚そのものが、結果として人にやさしい言語になっているのでしょうね。


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