人の一部を表す言葉と、自然に存在する物が同じ語源ではないかと思われる言葉が沢山あります。
目と芽、鼻と花、歯と葉、耳と実(み)、頬と穂(ほ)などがすぐに思いつくところです。
これから見ると、人のパーツも植物のパーツも同じように呼んでいたのではないかと思われます。
「やまとことば」にもとにある言葉では、同じ音の言葉は起源を同じくすることが多くあります。
明治が近づく後期の「やまとことば」では、新しく作られた言葉もありますが、それ以前においては音が同じ言葉はその起源を同じくすると考えられます。
例えば、顔の真ん中に突き出ている鼻の音は「はな」ですが、ほかに「はな」の使い方を見てみると、花は植物の先端に咲くものです。
岬の先端のことを「はな」と呼んだりします。
物事が変化したてのことを「かわりばな」などと言ったりします。
日本語の感覚では、人は自然の一部であったと思われます。
というよりも、自然と人を区別していなかったと言った方がいいかもしれません。
古くは、手や足のことを枝(えだ)と呼んでいたそうです。
手や足と言われるようになったのは、奈良時代のことのようです。
日本語が熟成されていった日本列島において、生命の最大の危機は自然環境でした。
他の民族による侵略は一度も行われなかった環境です。
日本列島は、自然環境の変化の激しい場所です。
人間の力で自然環境を変えることができない以上、自然環境に対応して生きていく工夫をしなければなりません。
人から見て、意のままにならないのが自然環境であり激しく変化するのが自然環境です。
そこに神の存在を考えたくなるのは、それこそ自然の感覚だったのではないでしょうか。
やがて、少しずつ自然環境の変化に適応する技を身につけることによって、それまでは人が生きていくことができなかった場所でも生活をしていくことができるようになりました。
それでも生きていくための最大の障害は、自然環境の激しい変化でありそれに伴う地形気候の変化です。
自然環境が大きく変われば、そこにおける自然の姿も変わります。
そこに生けるものも変化せざるを得ません。
人とはたまたまその生けるものの一つにすぎないのです。
これが日本語が受け継ぎ継承している感覚です。
その感覚からすると、人を作るのは生きてきた自然環境であると言えるのかもしれませんね。
自然と敵対しコントロールすることではなく、変化し続ける自然に対してどのように共生していくかを、自らが変化することによって行っていくことです。
侵略と戦闘の歴史の中で生き残ってきた、大陸の生き方と大きく違うところとなっています。
人が生きていくための一番の脅威が人による侵略であった欧米の文化では、自然は人との戦闘に勝つために利用するものでありコントロールすべきものとなっています。
彼らの言語にあっても、人のパーツと同じ呼び方をする自然界の言葉が存在しています。
かつてはどこかの段階で、自然と人がきわめて近いものであったことがうかがえます。
しかし、どうやらそれは人が中心であり、物理的な形状として人のパーツに近い形や位置関係にあるものに対して、人のパーツの呼び方を使用していった方が多いようです。
日本語の持っている感覚は、原始民族で近代文化に触れていない地域の言語の感覚に近いものがあります。
それにもかかわらず、日本は世界の最先端文明の担い手として存在し、認知されています。
欧米言語文化圏の人たちから見ると、そこが一番わからないところなのです。
日本語というスーパー言語は、自然との共生という感覚を根幹に持ちながらも、欧米言語文化をも理解し使いこなしている、更には指導的な立場にもいる理解できないものとなっているのです。
彼らから見たら、日本語を母語とする者たちのチカラが見極められないのです。
彼らの価値観にはないものが沢山あるのです。
あるいは、彼らの価値観では最下等なものであるにもかかわらず、そのパフォーマンスは彼らを凌ぐものがあるという非常に不気味なものであるのです。
彼らの持っている感覚や物差しでは、その能力すらが推し量ることができない存在が日本語話者なのです。
したがって、共通の場においては、日本語話者が彼らの感覚に合わせてあげることが必要になります。
日本語話者は、彼らの感覚を理解できます。
彼らの言語を使いこなさなくとも、多少の学習で彼らの感覚を理解することができます。
義務教育に始まって、ほとんどの教育を彼らの感覚による理論で刷り込まれているからです。
むしろ、そのことによって、本来持っている日本語の感覚に気がつきにくくなっているのです。
母語として日本語を持っている限り、意識しなくとも日本語の感覚で反応は起こります。
理由が分からなくとも、欧米型の言語感覚とは不自然さを感じたり違和感を感じたりするのです。
彼らの存在自体が自然の一部であり、環境の一部でもあるのです。
これに対応するのは、日本語感覚は得意なはずです。
相手に合わせることだけが共生ではありません。
共に生きていくための方法はいろいろあるはずです。
それを生み出すのが、日本語感覚の一番すぐれたところなんではないでしょうか。