2015年1月15日木曜日

海外メソッドが日本で通用しない訳

人の知的活動は言語によって行なわれています。

したがって、言語の持っている特徴は知的活動において現れてきます。

日本語はその成り立ちや歴史を見たときに、世界の他の先進文化圏の言語と大きな違いを持っています。
言語の起源を見てみても、世界では孤立した言語として扱われています。

先進文化圏における言語はかなりの共通性を持ったものとなっていますが、その中でも日本語は極めて特殊な言語として扱われています。


言語の本質的な基盤には、物事を考えるときの基本が隠れています。

それは人間そのものをどのように捉えるかであったり、神をどのように位置付けているのかだったりすることに現れてきます。

その根本にあるものは、自然をどのように捉えるか、自然とどのようにかかわるのかということになると思われます。


先進国を代表する欧米型言語は、そのほとんどがラテン語を起源としており、文字としてもアルファベットを基本としています。

したがって、日本語との比較においては、彼らの言語同士はずっと共通性が高いものとなっており、自然とのかかわりや神に対する考えたもの、似たものものとなっています。

それでも言語が異なれば、自然や神に対する感覚も微妙に異なることになります。


知の活動によって「個」の概念を作り上げた欧米型言語では、自然や環境すらもコントロールできるものと考えます。

人の存在が至上のものであり、そのために神は人としての理想形として設定されています。

人が中心にあり、論理が絶対的なものとして考えられていますので、論理的に説明し納得させる(説得する)ことがそのまま行動に結びつくことになります。


ところが日本語の持っている感覚は、それらのものと大きく異なっています。
(参照:言語とものの考え方

誤解を恐れずに言えば、先進文化圏にある言語のなかで日本語だけがその感覚が違っていると言ってもいいと思います。

日本語の持っている根本的な感覚は、原住民の感覚の方に近いものとなっているのです。

人を至上のものとする彼らの感覚と異なり、その違いを知によって生み出した論理によって確認しているわけではありません。


日本語の持っている感覚は、自然との共生であり変化し続ける自然に対して、自らを適応させて共生していこうとするものです。

わかり易く言えば、論理よりも感性や感情の方が重視されているのです。

その感覚は、自然や環境における変化を敏感に感じ取り、その変化に対して自己を適応させていこうとするものです。

絶対的な自己を中心として、周りに影響を与えようとする欧米型言語の感覚とは、対極にあるものと言うことができます。


その日本語は、明治維新以降には欧米先進文化を取り込んで、自らも先進文化圏の仲間入りをしました。

そのためには、先進文化圏との共通語が必要になるために、たくさんの新しい日本語を生み出してきました。

それは新しい言葉を作ることによって行われてきたことですので、言語そのものが持っている本質的な感覚が変わったわけではありません。


まさしく和魂洋才をそのまま行なってきたと言えるのではないでしょうか。

環境をそのまま受け入れることは、日本語の感覚は得意としていることです。

そこには論理は必要ありません。

分からないものを分からないものとしてそのまま受け入れることができます。


さらに、説得型の欧米型言語による論理は、とてもわかり易いものです。

言語やその意味するところについては、とても論理的で理解しやすいものとなっています。

しかし、言語が持っている基本的なものの捉え方や感覚が大きく異なっているのが現実です。


論理は分かっても、感覚として不自然さや違和感を感じることになるのです。

長期的には、ストレスを感じる元になる場合すらあります。

欧米の論理を理解したり、実際にそれを基盤にしたりしようとすると、「分かっていることとやれることの違い」に必ずぶつかります。


明治維新以降およそ150年が経過して、一部では日本語の感覚に融合してきたものもあると思われますが、1500年以上の歴史と継承を重ねてきた感覚を置き換えるには至りません。

あくまでも日本語の感覚として理解ができているにすぎないのです。


欧米型言語を母語としている彼らは、そのものが彼らが持っている根本的な感覚ですので不自然さや違和感を感じることはありません。

そのことがあたり前の感覚ですので、意識すらすることもありません。

基本は、日本語で表現されているので、その論理の明快さやわかり易さはむしろ理解を助けることになります。

教育におおいても欧米型の論理が刷り込められているので、ほとんど意識することなく受け入れていることだと思われます。


戦後に、日本が急速な経済発展をしていった中では、日本語の本来持っている感覚が大いに役に立ちました。

それを学んだ彼らは、自分たちの論理でそのいいとこどりをして、より具体的でわかり易い技術論やメソッドを作ってきました。

逆輸入された彼らのメソッドは、表面的には利用しやすいものだったのですが、ほとんど日本において定着はしませんでした。

日本流にアレンジされて、日本語の感覚に融合してきたものが新しい日本流として残っているものだと思われます。


その日本語の感覚は、今や毎年のようにノーベル賞を受賞したり候補にあがったりしています。

「もったいない」に代表される日本語の感覚そのものにも目が向けられるようになってきています。

文字のない時代の「古代やまとことば」は仮名という文字を発明したことによって、現代にも継承されてきています。

漢字という文字を借りてきては、「古代やまとことば」を表現する仮名や訓読みを生み出して、日本語のオリジナルを継承し続けています。


これらが日本語の日本文化の基盤となっていることは間違いがないことです。

感覚としての不自然さや違和感に素直に従ってみるのも、大切なことかもしれませんね。





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