2015年1月13日火曜日

説得と調整

なんとなく気軽に使っている言葉ですね。

欧米型言語の感覚の特徴が「説得」にあり、日本語の感覚の特徴が「調整」にあることは、それこそ感覚として理解できるのではないでしょうか。

説得とは自分の思うがまま(目的)に人に動いてもらうために、論理を初めとする手練手管(テクニック)を駆使することになります。
そこには必ず、目的達成のために具体的に相手を動かしたい内容が定められており(戦略・戦術)、その行動をさせるために様々なテクニックを考えます。

説得する側においては、その相手の行動はmustであり、あらゆる手段を使って相手を動かそうとします。
心理学や強者弱者の関係など、あらゆるテクニックが開発されてきました。


そこには論理的な説得が重視されています。
論理性が重視されている感覚の元では、論理的に納得することで行動に結びつきます。
相手を思うままに動かすためには、論理的に相手を納得させることが一番の主眼になります。

新興宗教や詐欺行為は、このテクニックだけを駆使したものということができるかもしれません。

論理的に納得させられた方は、感覚として否定することができないために、行動せざるを得なくなります。
これが説得です。

そこでは、論理、根拠、検証等の様々な手法が用いられ、社会生活のあらゆる場面において説得が基盤となっていることが分かります。



調整の感覚は相手を動かすことも含まれますが、多くは自分が動くことも前提としています。
自分が相手の役に立つ動きをすることによって、相手にも自分の役に立つ動きをしてもらおうとする感覚です。

そこでは論理的な納得よりも、そこに至るまでに築き上げられてきた全人格的な人間関係を元にした信頼関係が基盤となっています。
したがって、どれほど良い内容で論理的に納得できたとしても、信頼関係の築けていない相手に対しては行動に移せない感覚があります。

また、環境との共生の感覚が基盤にありますので、一方が圧倒的に有利となるような関係も存在しないことが感覚としてわかっています。

信頼性を前提とする調整においては、初対面は圧倒的に不利となります。
そのためには、相手が信頼性を確保している人の仲介なり紹介なりが有効になってくることになります。
このことを含めて、根回しと呼ばれているものになるのだと思われます。


当然のことではありますが、説得は調整に比べてあまり時間を必要としません。
同じような機能を持った大量生産品を、おなじようなPRで大量に売りさばくためには、調整では時間がかかり過ぎます。
説得型にならざるを得なくなります。


言語の本来が持っている特徴が、調整型であり、社会生活そのものが調整型で成り立ってきた日本語の環境において、説得が力を持ってきたのは明治維新以降のことです。

法律の扱いが厳格な絶対的なものとなりました。
それ以前では、当事者間や社会との信頼関係において、お目こぼしや減刑などは当たり前のように行なわれてきました。
その信頼関係を明文化することは不可能です、ましてやその当事者間の関係に基づく量刑は明文化できるものではありません。


現在一般的に交渉と言われているものには、説得も調整も含まれてしまっているようです。

説得は、YesかNoのリアクションしかありません。
説得に対して説得で返ってくる場合が、交渉になるのかもしれません。

交渉には、自分も動ける、相手にも動かしたいものに応える幅が必要になります。

結果としては、自分の動く幅が大きいのが日本語の感覚であり、相手を動かそうとする幅が大きいのが欧米型言語の感覚と言えるでしょう。
しかし、最初の目的が大きく違っています。

相手を動かすことから発想するのが欧米型言語の感覚であり、自分が動いて適応させようとするのが日本語の感覚です。


説得という活動が社会に浸透してきたのはそれほど古い話ではありません。
主には明治期以降のことです。

数えられるだけでも1500年以上の言語文化を継承してきた日本語にとっては、10分の1程度の影響しかありませんが、現代日本語の感覚にいる私たちにとってはそれがすべてとなっているように映っています。

しかし、言語としての日本語はすべての知的活動の原点です。
その言語の基盤は、直近の150年のものではありません。
それまでの言語の上に工夫された現代言語には、矛盾を含んでいるものもたくさんあります。

それでも、コミュニケーションのための言語は日々変わっていきますが、基盤となる言語感覚に変わりはないはずです。


説得という行為に対して、違和感や不自然さを感じながらも仕方なく動いてしまうのが、現代の日本語感覚ではないでしょうか。
そこには説得に使用される論理や検証において、納得させられたら動かなければいけないという欧米言語の感覚が、教育としても刷り込まれてきていることも挙げられます。
あれだけ刷り込まれながらも、どこかで違和感や不自然さを感じ続けているわけですから、その感覚はもっと本質的なところからきているものということができるのではないでしょうか。


説得と調整とを並べられたら、その違いがよく分からなくとも調整を選んでしまわないでしょうか。

それは日本語の持っている感覚と結びついていることだと思います。

掘り下げていくと、いろいろなものが出てきそうですね。




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