自然とどのようにかかわるかによって、その民族の持っている基本的な感覚が決まってしまうものです。
人間を自然の中で生かされている生物の一つであると考えるのか、知を持った人間は、その知によってすべての自然の上に位置し自らの幸福と繁栄を目指すものととらえるかの違いです。
知によって自然をコントロールできると考えた結果、知を至上のものとして本能を軽視し、情を蔑にして、現在の様に物質的な技術や論理の上に立った世界を築いてきました。
それまでは人が生きていける環境は限られた地域でした。
地域によって異なる自然の中では、人が環境に対応することで、生きていけるエリアを見つけてきました。
人類発祥の地と言われるアフリカを出て、日照の少ない北に向かった人々は、自然の環境に適応するために肌の色を変え鼻の高さを変えました。
入手可能な食物に適応するために腸の長さまでも変えていきました。
自然環境に適応して、自らの肉体を変えてきたのです。
知によって、人は火を使うことを覚え、衣服を作り寒さを防ぐことを覚えました。
つまりは、文化を得ることによって、自らの肉体を変化させることなく(本能に頼ることなく)どのような環境にも住むことができるようになりました。
いまや、肌の黒い人も寒冷の地に住んでいるし、肌の白い人も熱帯地帯に住んでいます。
人類は、文化のチカラによっていかなる自然環境にも適応できるようになりました。
生物の変化は、生存のためのものです。
種の保存のために、本能によって環境適応するようになっています。
どんな自然環境においても、生きていける文化(知)を手に入れた人類はどこへ向かったのでしょうか。
分野を問わず、これが悲劇の始まりだったと指摘する学者が大勢います。
二足歩行を始めて大きな脳を手に入れた人間は、知と言葉を得て文明を発展させました。
そして西洋文明(一言で言ってしまうには問題があるかもしれません)は個を発明しました。
この個の概念は自然界には存在しないものです。
人間の創造したものです。知によって作り出されたものです。
種の保存としての危機を感じなくなった人間は、本能としての種の保存よりも個を優先するようになったのです。
一気に話を詰めます。
知に拘り、個を偏愛した西洋文明は哲学を得るとともに一神教に囚われました。
個人主義を追求することは、全体とのつながりを断ち切ることであり、関係性を軽視することになります。
人間だけの幸福と繁栄の追及を目指してきた西洋型の文明が限界にきました。
情を持つ人間は知だけでは耐えられません、つながりを失くした人間は孤独には耐えられないのです。
そして一神教としての絶対者を設定して救いを求めたのです。
これは、知の行為ではありません、情に基づく行為になります。
この矛盾を、西洋文明は知の論理で取り繕うことをしてきました。
いろいろな条件が重なった結果ですが、幸いにも日本語は知と情のバランスを失わずに存在してくることができました。
何度かにわたる先端文明の導入においても、極端な個人主義の病にも侵されることはありませんでした。
活動の広がりを世界に求めた時に特殊感を味わった日本語は、西洋言語を代表とする他の言語への適応をしてきました。
しかし、その根源にあった自然とのかかわりによって築いてきた文化を持ちながらも、見事に彼らの感覚を取り込みながら日本語を継承してきているのです。
西洋文明を取り込んできたものの、日本文化は根本的には異質なものであるために、いたるところで疑問が提唱されているのは当たり前のことなのです。
日本語における、状況の説明がざっくりであっても、なんとなく全体の中にいる感覚があり、ふわ~っとした心地よい共有感があると指摘されるのは、他の言語話者から指摘されることです。
他の言語話者が日本語を使うときも、自然に言葉としての「わたし」を意識しなくてよくなっていることが、話をしている本人にとってはとても自然で肩の力が抜けることとなっているようです。
現代日本語にも根強く残っている、自然との融和性や共生的な世界観、知と情の向かうべき方向性の模索などは、行き場を失ってしまった西洋文明に対して光を投げかけるものではないでしょうか。
似たような環境にある言語はたくさんあったと思われます。
しかし、それらのほとんど言語は西洋文明に触れた時にアイデンティティを失ってしまいました。
また、残っている言語については、西洋文明の恩恵からも遠いところにあるために、現代世界においてはその存在を意識されるものではなくなっています。
日本語はもともとは、そちら側の言語です。
にもかかわらず、世界の最先端文明を担ぐポジションにいることができるのは、間違いなく西洋文明の恩恵のおかげです。
すでに破綻している西洋文明に光を与えるものがここにあるのではないでしょうか。
西洋文明を追いかけ追いついた日本語だから、その先にある日本語が本質的に持っているものを知らせなければならないのではないでしょうか。
あらゆる場面でその兆しが見えています。
2000年以降のノーベル賞の自然科学(物理学、化学、医学生理学)の3分野を見てみると、1位のアメリカに次いで日本人の受賞者数が多いのです。
その数は、全ヨーロッパの合計人数よりも更に多いのです。
世界自体が既に感じ始めていることではないでしょうか。
まず、日本語を母語として持っている私たちが、もっと日本語の本質について理解しておく必要があるのではないでしょうか。
もうすでに出番は来ていると思われます。
いつでも登場できる準備だけはしておく必要があると思います。
世界が、日本に救いを求めているのではないでしょうか。
人類が、日本に救いを求めているのではないでしょうか。
日本語にしかできないことが沢山ありそうですね。
準備を怠らないようにしましょう。
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