(参照:気づかなかった日本語の特徴)
世界の言語の中でも、その成り立ちを含めて本質的に異なる言語が、少なくとも二種類あると思われます。
その代表としてあげられるものが、日本語と英語です。
恐らく同じようなことが、他の欧米の言語に対しても言えるのではないかと思っています。
英語は、今や世界の共通語・公用語としての地位を不動のものとして、ますます英語の母語話者たちの国際交渉における優位性を確実なものにしようとしています。
方や、日本語はその特殊性ゆえに、どこまで行っても日本語話者だけのための言語であり、一歩日本を出てしまえば、世界に対しては全く意味をなさない言語となっています。
世界相手の交渉においては、言語の差は現実的な大きな障害となって存在します。
交渉当事者同士の言語が異なってしまえば、細部にわたる交渉はもとより不可能ですし、中身も浅くなってしまいます。
共通理解のために共通語を使用したとしても、どちらかの母語でない限りは、両者にとって感覚がずれる元になるだけになります。
日本語とアラブ語を持った者が交渉を行う時に、英語で行うようなものです。
自分の持っている言語と英語自体が、それぞれにおいて大きく感覚が異なっています。
そのうえでの、共通語での交渉となれば、どうしても表面的なものとならざるを得ません。
そもそも、知的活動そのものが母語によって一番効率がよくできるようにできていますので、他の言語での知的活動がそれに及ぶわけがないのです。
それでも、日本語が世界で全く通用しない言語であるという認識は、とても大事なことであろうと思われます。
SNSを中心とした、個人の情報発信の機会が増えてきている現状では、自分では意識しなくとも、世界への発信が勝手になされていることになります。
自動翻訳によってなされた翻訳は、よほどのことがない限り自分の発信内容の翻訳を確認することはないでしょう。
日本語で発信した内容が、元の主旨も関係なく直訳的な文字を基準にした自動翻訳によって勝手に翻訳されて読まれているのです。
少なくとも英語と日本語の違いをある程度知っておくことは、発信する側の心得として必要になってきていると思われます。
英語と他の欧米言語は、本質的な違いがほとんどありません。
日本語がその本質が根っこのところから大きく異なっているのです。
小さなツボの中の言語で世界に発信したときに、世界の共通語に対して坪の中の感覚を理解しろと言っても無視されるだけです。
ツボの中が世界を理解して、それに対応した発信をしなければなりません。
それは決して単なる迎合を意味するものではありません。
日本語での発信でいいのです。
ただし、その日本語がどのように英語で感じられているのかということをわかっている必要があると言っています。
日本語によって込められた感覚を理解してもらうために、感覚の違いを分かっておくことです。
違いが分かっていれば、それを調整する手段はいくらでも考えることが可能だからです。
違いが判らなければ、調整のしようもありません。
日本語と英語が本質的に異なることは、日本語は「気持ち」を伝えるための言語であり、英語は「物事」(モノ・コト)を伝えるための言語だということです。
極めて簡単に言い切ってしまいましたが、言語の成り立ちや文法・発音・教育方法などあらゆることで異なる言語ですので、違いを見つけていったらきりがありません。
今まで見てきた違いもたくさんありました。
(参照:日本語 vs 英語 など)
それらすべてを含めて、ここに集約できると思われます。
日本語は自分の気持ちを相手に伝えようとするものですから、当然の様に主観の表明になります。
その結果、日本語は主観的な気持ちを述べる感想文的なものとなります。
英語はモノ・コトを伝えようとするものですから、客観的な表し方となります。
客観的にモノ・コトを述べる説明文的なものとなります。
「気持ち」と「物事」は主観と客観であり、まさしく正反対のものです。
主観的な気持ちを主観的に伝えようとする日本語と、客観的事実を客観的に伝えようとする英語は、本質的には全く異なる言語なのです。
例を一つ挙げておきます。
日本語で言う「うれしい!」は、英語だとどうなるでしょうか。
I am glad.
I am happy.
などでしょうか。
いずれにしても事態の説明です、日本語に直訳すると「私はうれしい状態にあります」という客観的な説明です。
日本語で敢えて、英語っぽく言うならば「私は、うれしい!」でしょうか、
「私は、うれしい!」と「私はうれしい状態にある」は明らかに違います。
「私は、うれしい!」は主観の言葉です、日本語では主観だとわかります。
だから、主語がいらないのです。
「私はうれしい状態にあります」は、客観的な説明です。
実感を表しているわけではありません。
敢えて英語で近い表現を探してみると、
My pleasure.
あたりでしょうか。
場合によっては My pleasure!と使われることもあります。
これにしても、「私の喜びです」となってきわめて客観的な説明となります。
そもそも、自分のことを言っている内容に対してIやMyが付くこと自体が客観性を求めていることになります。
日本語の場合は、同じ空間に自分と相手しかいない場合には、お互いの気持ちの伝えあいですので主語なんかありません。
多くの対象者がいる場合に限って、特定の相手を示すときに初めて主語が登場することになります。
英語にfeelという動詞があります。
日本語にすると「感じる」と言う訳になるようです。
日本語の主観の表現に近いものです。
I feel sad.
などと言うと、主観の表現の様に訳されますが、これも客観的な自分の気持ちの説明文であり、日本語で言うところの「かなしい!」にはならないです。
文化歴史的な背景や、原始言語からの歴史などのすべてのものが凝縮されたものが言語であり、それぞれの文化環境において最適な表現として変化してきたものが言語です。
日本語は、他の文化や言語により圧迫をほとんど受けずに発展してきました。
世界の先端文明を取り込んでも、それを吸収して自らの言語をどんどん熟成していったのです。
その感覚は、自然の中に生かされている感覚にも根付いています。
欧米言語には、人至上主義的な感覚があり自然は一段下に見ており、人によってコントロールすべきもの的な感覚があります。
木材の白木はほとんど使わず、人工的な手を加え色を付けることを好みます。
庭は、そこにあった自然や景色を生かすことよりも、シンメトリーに人工的な加工したものを好みます。
例を挙げていくときりがないくらいです。
日本語と英語が二極にあるということではなく、日本語から見た時には欧米言語はほとんどがそうなっていることを知っておくべきでしょう。
単語やフレーズの置き換えと言う翻訳とは、全く異なった次元での言語の理解の方が大切ですね。
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