身につけた母語によって、ある程度のものの考え方が決まってくるようです。
そもそも母語は、幼児期にその母語を最適に使いこなせるように、脳を初めとした各器官が発達していくための指標となるべきものとなっています。
やがて、母語を使用することにかかわりの低い機能が使われなくなっていきますので、退化していきます。
知的活動は母語によって行われることが、質として一番高いものとなっていくことになります。
言語が異なれば文化が異なります、また、文化が異なれば言語も異なることになります。
日本語と欧米語は本質的に異なります、英語とも本質的に異なります。
(参照:本質的に異なる日本語と英語)
日本文化と欧米文化は、大きく異なるものとなっています。
文化の違いと一言にいってもわかり難い捉え方だと思いますので、ここでは代表的な例としてものの考え方について見てみることにします。
文化の根底にあるのは、ものの見方、考え方であると思われます。
自分と自分の周りのものとの関わり方についての考え方です。
言い換えれば、自分と自然との関わり方についての感じ方ということができると思われます。
これが最も重要なものの考え方であり、考え方の基礎になるものではないでしょうか。
日本人は継承されてきた環境文化によって、自分も自然の一部であると感じています。
自然ですから、ありのままを一番と考えています。
自然に対して素直であることが、一番安定して安心していられることだと感じています。
だから、不自然を嫌います、不自然なものに対していかがわしいとか相容れないものとしてとして軽蔑をします。
日本語を母語に持っていると、自然に対する態度として自然と共に生き自然の恵みに感謝しつついかに自然を生かせるかを常に考えています。
そして、そこでは努力することや働くことを自然なことと考えており当たり前のことであると思っています。
その結果として、働けることそのことすら幸せと感じています。
また、ものを作ることは自然に働きかけ自然の力を引き出すことだと感じています。
だから、ものを作ることにこだわり、そのこと自体に喜びを感じるのです。
欧米人の感覚では、自分は自然とは別のものであり特別なものであると考えています。
人間は自然より上位にあるものであると考えているのです。
その結果、人間にとって自然は対決する対象であり征服すべきものと思っているのです。
自然のものありのままのものを善しとせず、必ずと言っていいほど人の手を加えようとします。
木材に対しても、白木の木肌を愛でて使用するのではなくペンキを塗ってしまおうとします。
庭園造りにおいても、地形やそこにある植物を生かすのではなく左右対称のものとして人の手を入れて加工してしまいます。
この自然に対する姿勢は、日本人と欧米人では対極にあると言ってもいいくらいです。
ものの考え方が対極にあるならば、文化そのものも対極にあるということになるのではないでしょうか。
日本語が自然音である母音を中心に構成されていることや欧米語が人工音である子音を中心に構成されていることは、単なる歴史上の選択の問題ではないものを感じざるを得なくなります。
どちらが良いとかいう問題ではありません。
精神文化の基盤となっていることですので、自然とそのような考え方や見方になっていくことになります。
それぞれの持っているものの考え方に適した言語になってきているのです。
ものの見方が先にあったのか言語が先にあったのかは、ニワトリと卵の関係と同じではないでしょうか。
成り立ちはどちらが先かは別にしても、ものの考え方をさらに質を高め定着するために言語が役にたってきたことは間違いありませんし、その言語によってものの見方が継承されより質の高いものになっていったことも間違いのないことでしょう。
このような違いの理由や根源を見つけていくことも楽しいことでしょうが、形や記録として残っているものではありませんのでどこまで行っても推測の域を出ないことになるでしょう。
それよりも、このような違いを内在しながら生活をし、生きていることを理解していることが大切ではないでしょうか。
お互いを理解することは、お互いの違いを認識することから始まるのではないでしょうか。
そのためには、欧米人に日本人や日本語を理解してもらうことよりも、日本人が彼らや彼らの言語や文化を理解する方が自然のような気がします。
自然とのかかわり方は、自分以外に人とのかかわり方につながるものです。
共生の感覚のある方が、理解することの方がより自然な対応ではないでしょうか。
彼らのよって立つクリティカルシンキングは、技術として存在するのではなく文化の基盤として存在する絶対のものなのです。
日本人の私たちにとっては、理解することはできても彼らと同じようなものの見方や考え方はできないのです。
無理にやろうとすると、不自然なものとして拒否反応が起きてしまうのです。
マーケティング、マネジメント、コーチング、など、彼らの文化によって生まれてきたものは論理的でありとても理解しやすいものです。
彼らの言語はそのために存在し、説明するために適している言語となっています。
ところが同じことが日本人にはできないのです。
不自然なこととして感じてしまうことが多くあるからです。
技術的な問題や論理的な問題ではありません。
ものの見方、考え方の根本が違っているのです。
無理に合わせようとすると、不自然さを感じてしまい感覚的に体が抵抗をするのです。
彼らが見る私たち日本人や日本語にも同じことが言えるのです。
彼らの感覚を同じように感じることは出来ません、しかし、このように感じているのだと理解することは出来るはずです。
その理解や認識は母語によってなされるものですから、それ自体が自分たちの言語感覚による理解でしかないのです。
その言語自体が自分たちの感覚に適したものとなっているのですから、完全なる理解は不可能なはずです。
わかったようなつもりになっていることが一番怖いことかもしれませんね。