2014年11月23日日曜日

アウトプットを評価すること

日本人がアウトプットするが苦手であることは、機会があるたびに述べてきました。

その原因は、表現技術について学ぶ機会がほとんどないままに社会に出ていく学校教育にあります。

さらにその原因を突き詰めていくと、日本語の持っている言語としての要素があまりに大きすぎるために、言語そのものを習得するのに時間が取られすぎてしまっていることが挙げられます。

他の言語との比較をしてみると、義務教育における国語教育にその違いをはっきりと見ることができます。
(参照:日本語の最大の欠点


他の言語では、義務教育の初期段階で国語の基本的な習得を完了しています。

それ以降については、演劇やディベートなどを利用しながら言語による表現技術を磨いていくことが行なわれています。

ほとんどの国の国語教育において、その目的は「社会で生きていくための基本的な知識技術を身につけること」が挙げられています。


日本の学習指導要領における国語科の目標は、以下の内容となっています。

国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成し,伝え合う力を高めるとともに,思考力や想像力及び言語感覚を養い,国語に対する関心を深め国語を尊重する態度を育てる。

生きていくために必要な言語による表現技術とは距離感を感じざるを得ないと思います。


社会そのものが文化として、基本的にアウトプットが苦手であり、アウトプットを評価することが苦手となっているのです。

自分自身がアウトプットが苦手あるがために、人のアウトプットに対す手の評価も苦手となっているのです。


一番わかり易いのが学校の成績ではないでしょうか。

学校の成績そのものは、必要な知識としての習得(記憶)状態を確認するものです。

つまりは、インプットされて保存されているものの確認です。

覚えていることの比べっこに対して、〇☓で評価して点数化して順位をつけている行為です。


そこには個人としての主張や意見を必要とするものはほとんどなく、知識としてインプットしたことが正しく保存されているかどうかの確認行為にすぎません。

成績のための一番の基準となる試験は、インプットの比べっこであり、アウトプットのチカラをほとんど必要としないものです。

そしてその成績によって、全人格的な評価をされてしまうのです。

更に、その成績については、瞬間的な一回限りの評価で行われていることがほとんどであり、一旦ついてしまった成績はほとんどの場合は変わることはありません。


たまたま試験の時に、記憶の呼び出しがうまくいかかったとしても、二度と取り返しができないものとなってしまうのです。

やげては、その成績が個人としての全評価として定着してしまうことになるのです。

学校における成績は、そのまま上級学校への入学試験へとつながっていきます。

やがては、最終学歴の学校名が、あたかも本人の全能力を示すかのように扱われることになります。


それでも試験については、そこで確認されている内容はインプットされたものであったとしても、何らかの形で書き表したりする行為はアウトプットと言えなくもありません。

ただしアウトプットの質としては、普段の会話の方がよほど高いと言えるものです。

学生時代にほとんどアウトプットを経験していない者が、社会に出たからと言って、自然にアウトプットの力がつくわけではありません。

社会の環境によっても、求められるアウトプットが大きく異なります。


海外の教育においては、主張や自己表現のための技術を小さな時から身につけていきます。

また、個人の人としての評価とその人のアウトプットに対する評価がきちんと区別されていきます。

どんな人が行なったアウトプットであっても、純粋にアウトプットのみを評価できる基準を持っていくのです。


したがって個人の持っている能力や師カウとは別に、アウトプットされたものを評価することができるようになっているのです。

個人と言う人間は、人によって評価されるべきものではありません。

人が評価できるのは、アウチプットだけです。

アウトプットに対してどんな評価をしても、個人の人としての評価とは無縁のものなのです。


日本人はそうはいきません。

アウトプットの評価が苦手ですから、アウトプットの評価をしようとするとどうしても純粋にアウトプットだけで評価できずに、個人の資質や能力を表すものを頼りにしようとします。

全く同じアウトプットに対しても、出身校によって評価が異なるのです。

アウトプットだけでの評価ができませんので、ほかの要素を探して評価するのです。

結果として、全人格的な評価となってしまうのです。

それも、評価者の持っている基準よりも、社会的に一般的に言われている相場としての基準の方が優先されます。

その分野において何らかの評価基準を持っていない限りは、誰かがした評価が基準になってしまうのです。


ためしに、アウトプットを評価する場面において、そのアウトプットをした人の名名前や経歴を隠しておいたらどうなるでしょうか。

評価すべき立場に居ながら、評価できない人がぞろぞろ出てくるのではないでしょうか。

もちろん評価するときに他の要素を考慮することを否定するものではありません。

しかし、一番重点を置いて評価すべきことに対して基準を持てないことは問題外だと思われます。


二つの要素が重なることになります。

アウトプットそのものに対して保評価基準を持っていないことと、アウトプットに対しての評価が全人格的な評価になってしまうことです。

世界的に高い評価を受けたアウトプットをした人に対しても、その人の人格的な評価によってなされる日本における評価は決して高くないことがよくあります。

もっともっとアウトプットをしながら、アウトプットだけを純粋に扱えることを学必要がありますね。

学校では教えてくれないことです。

日本の中だけにとどまっていたら、無理なことかもしれないですね。