日本語と英語を比べてみると、それぞれの言語の特性がわかりやすくなります。
言語の性格として、ほぼ両極端に位置する感じですから、比較することによってそれぞれの持っている特徴が鮮明になってきます。
それはそれぞれの言語を使う人たちが築き上げてきた、他者と自分の関係を物語っているものということができます。
言語が使用される場面で一番多いのは、他者とのコミュニケーションのためであり、長い歴史の間でそのために適した言語になっていたものと思われます。
日本は、狭い土地に日々移りゆく大きな気候の変化の中で、自然との闘いを中心とした農耕共同生活によって生き抜いてきました。
専門の武闘集団である武士にしても、その基盤となっているのは領地の米の収穫高であり、その上に成り立っている上澄みの階層が武家でした。
他者との作業協力と分担した役割を果たさなければ、自分自身の収穫すらおぼつかなくなります。
戦いの相手は時として命を懸けた対応ともなる自然環境の変化です。
四季の多くの変化と、多雨の気候は、農耕にとっての大切な水の害と背中合わせの環境となっていました。
渇水では水を確保するための工夫をし、洪水では水を逃がす工夫をしてきたのです。
どんなに効果が高いと思われることであっても、個人の勝手なやり方は受け入れられず、人と違ったことは、協調性がなく一種の奇異として村八分という恐ろしい結果が跳ね返ってくることになります。
少しでも他人の人と違った部分を見つけ出し、特殊性を見つけてみんなでそれを攻めることによって、協調性を確保すると同時に自己を守ることをしてきました。
人と違うことはあってはならないことであり、生きていくためには他者と同じことを言い、他者と同じことをして、役割を分担していかなければならないのです。
他者と違うことは、たとえそれが優位であったとしても、共同体の中では見せてはいけないことなのです。
愚直に同じ作業をやり続けることが尊ばれ、大きな変化は受け入れられず、個人は共同体の構成員としてこそ、その存在価値を見出すことができるものとなっていました。
効果的なやり方や新しい取り組みは、誰かが人知れずそれによって結果を出すことで、初めて少しずつその結果を得たい人たちに広まっていくことになります。
他者に理解してもらうことよりも、自らの研鑽のためにすることの方が大切なこととなってきます。
表向きには、共同体と完全な歩調を合わせながらも、知恵と工夫の発揮どころはそれぞれ個人の活動の中にあることになります。
そんな日本人のなかで磨かれてきた日本語は、共同体の意思を感じ取る感覚に重きがおかれます。
そこでは非言語的な表現をも感じ取れる感覚が必要になってきます。
言語の活躍する場面は、自分自身の中での知的活動である思考することで使われることが多くなります。
自然と、個人としての思考するために適した言語となってきているのです。
外に対して自己を表現して発してしまえば、自ら特殊性を強調することとなってしまいます。
そのために、はっきりとした自己主張や意思の表明を避けて、全体との協調を示そうとします。
外に対して発する言語はおのずと少なくなり、言葉が足らなくなります。
共同体としての活動のなかで、おなじような生活環境で生きていますので、言葉にせずとも伝わる共通感覚はかなりの領域にわたっていたことでしょう。
生産するための土地を命がけで自然から守るために、簡単に転出入はできません。
固定的な共同体が、何世代も続いていったのではないでしょうか。
その結果、言語としての日本語の特性は、個人としての思考活動に適した言語となっていたと思われます。
対して英語は、人と違うことを他者に理解してもらうために使用する言語と言えます。
共同体の構成としてよりも、独立した個性のある個人としての存在の方に価値を置くのが彼らの社会です。
そうはいっても同じような生活環境にあるわけですから、自らが他者との違いを積極的に発信していかないと、生活している共同体である社会において存在を意識することができないのだと思われます。
他者と異なることを見つけてそれを強調して、より明確な違いであることを他者に理解してもらうことによって初めて、自己の存在を確認できる社会です。
コミュニケーションの中心は、他者と異なる自己主張であり意思の表明です。
これを他者に理解させて初めて、目的を達するのです。
思考活動よりも表現活動のための言語が磨かれていくことになります。
表現活動の目的は、相手に理解させることです。
そのために適した性格持った言語が、英語ではないでしょうか。
日本の義務教育では、個人の思考活動としての材料である知識のインプットを徹底的にやります。
義務教育の効果を測る、高等教育の入学試験の内容は、どれだけの知識を持っているかの比べっこであり、表現力が求められるようなものはほとんどありません。
アメリカやイギリスの義務教育では、低学年のうちから演劇やディベートを通じて、自分の主張や意志を表現することを徹底的にやります。
義務教育における国語教育の目的が、社会において生きていける表現力を身につけることになっているのです。
上級教育に行けば、プレゼンテーションや説得・演説・議論は当たり前であり、その中でいかに自分の主張に価値をつけ理解させるかを身につけていきます。
今年もノーベル賞の自然科学分野(物理学、化学、医学生理学)で日本人が受賞しました。
同時に3人が物理学賞の受賞となりました。
自然科学分野は他の分野(文学、平和、経済)と異なって、特段の貢献を評価される分野です。
いずれは受賞するだろうと言われていた、青色発光ダイオードの功績が認められたものです。
日本社会の環境との乖離を指摘して飛び出していって、米国籍を取得して活躍されている中村先生の受賞は、胸のすく思いでした。
思考するための言語は母語として幼児期に決まってしまいます。
そして思考するための基本的な知識を、国語によって義務教育で身につけていきます。
放っておけばそのままの言語が表現するための言語になっていきます。
日本語は、思考する言語としては、おそらく最強の言語だと思われます。
(参照:思考するための最高の言語;日本語)
これに表現するために適した言語である英語が加わったらどうなるのでしょうか。
恐らくは、世界最強の言語構造を持つのではないでしょうか。
もちろんそれぞれの言語の使い道を間違えたら何にもなりません。
日本で義務教育としての日本語を身につけたあとで、しっかりとした表現言語としての英語の感覚を身につけることができたら素晴らしいことになるのではないでしょうか。
自然科学分野でノーベル賞を受賞している日本人を見ると、ますますこのことを強く思わざるを得ません。
英語は相手を理解させるために適した言語となっていますので、表現する言語として身につけることは比較的簡単にできます。
また、人との違いを見つけることに慣れている社会ですので、多少ニュアンスが違っても、受け取る方がうまく見つけてくれます。
彼らから見て、日本語を身につけるのが難しいのは、思考に適した言語となっているので、理解してもらうには難しい言語となっているからです。
言語感覚としてならば、「日本語で考え英語で伝える。」、これが最強の言語の使い方ではないでしょうか。
少なくとも、英語で表現することとはどんな感覚なのかをということは知っておきたいですね。
その感覚は必ず日本語で表現するときでも役に立つはずですから。
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