以下のテストは少し前にも使ったことのあるものです。
欧米の人たちの観点とアジアの人たちの観点の違いについて実験したものです。
これを英語と日本語に当てはめてみると、もっと鮮明になってくるようです。
牛を中心にして、牛の仲間を選ぶとしたらどちらを選びますかというテストです。
全てがそうなるということではなく、大きくこんな傾向がありますよと言うことです。
英語話者においては、Aのニワトリが大多数となります。
日本語話者においては、Bの草を選ぶ人が半分以上になったそうです。
ニワトリを選んだ場合の根拠は、動物(生き物、家畜)としての共通性によるものが中心です。
つまりは、分類として同じカテゴリーに属するものとしての判断基準が前面に出ていることになります。
個としての特徴や違いを大切にする英語話者は、その大前提として分類によるカテゴリーが大きな意味を持つことになります。
そのカテゴリーのなかでどのような特徴や違いを持っているのかを評価するために、前提となる分類という行為が自然に行われているのではないでしょうか。
草を選んだ根拠は、いわゆる食物連鎖の関係での餌にあたるものになります。
そこでは分類としての基準よりも、関係としての基準のうほうが前面に出ていることになります。
単一民族としての、生命の危機にかかわるような外部との折衝のほとんどない日本語話者は、分類を前提とした基準で判断することが苦手になっています。
特徴や違いということが、生命共同体としては封印されている状況にありますので、違いを前提にしたカテゴリー分類がほとんど必要ありません。
敢えて表現すると、一つの巨大な緩いカテゴリーの中にすべてが存在しているような感覚ではないでしょうか。
その中で重視されてる基準は、それぞれの関係性です。
大きなカテゴリの中でも、関係性を確認できないと居心地の悪さを感じることになります。
上下、主従、敵味方、部分全体、などの関係性を確認することによって、自分の存在位置を確認しているのです。
分類されたカテゴリーのなかでは、基本はすべて並列であり、個性で違いを見つけようとする英語話者の自己の位置確認とは異なったものとなっています。
日本語話者においては、強弱、優劣、大小、などの他者との関係において、自分で判断したり他者に決められた位置を確認することによって、自分の位置を確認して安心することができます。
分類されたカテゴリーの中では、すべてが並列であり、その中での自分の位置は、違いを自らが主張することによって作っていく英語話者と異なっているところだ言うことができます。
日本語話者の環境は、ほとんどの環境に大きな違いがない社会のなかで、他者との関係から自分で位置を探していくようになっており、英語話者の環境は属するカテゴリーのなかでの違いを自らが主張して自分で位置を作っていくようになっていると思われます。
したがって、何かわからないものがあると、分類として同質性の判断が最初に来ることで安心できるのが英語話者であり、他との関係性において確認することが最初に行われることで安心できるのが日本語話者だと思われます。
これはどちらが良いとか優れているかという問題ではなく、判断するときの傾向を示しているものにすぎません。
しかし、何かに出会った時に最初に行われる判断の傾向がわかっていることは、お互いの理解のためには大きな助けになります。
特に日本語話者にとっては、世界と触れる場合には日本語は全く役に立たないのですから、自分たちの判断の傾向が彼らと異なっていることを知っていることは大きな力になると思われます。
日本語は日本語話者の特徴とともに、世界においては本当に特殊な存在となっています。
特殊な存在ということは、彼らから見たら理解することが難しい存在ということになります。
これらの傾向をやり取りするときに使われるのは言語です。
当然、言語はその傾向を表すために適したものに変化してきています。
一つの言語でその言語の持つ使用民族の歴史的な伝統的な感覚を継承していくことはとても難しいことです。
人が生きている環境が大きく変化してきており、言語の役割そのもの変化してきているからです。
その中で、先端文明を担いながら独自の民族感覚を維持していくためには、言語としては二種類の方法しかないと思われます。
自らの伝統言語が、世界の先端文明で使用される世界標準言語となってしまうことがその一つです。
現代言語の中では、英語が一番近いポジションにいると言えるでしょう。
もう一つは、伝統言語を維持しながら先端文明のための言語を持つことが必要となるのです。
一つの言語でこれを行うことは、その言語の中で常に葛藤が存在することになり、変化をし続けることになると思われます。
現実的には、現代の文明のための言語に常に変化をしていくこととなり、伝統文明を言語としても失っていくことでその感覚も継承されていかなくなると思われます。
日本語が世界の言語の中でも圧倒的な特殊性を発揮しているのが、表記している文字種の多さです。
極論をすれは、文字の種類だけ異なった言語を使いこなしていると言えます。
ひらがなだけでもカタカナだけでも、一言語として成り立つものです。
漢字だけで成立している言語は、現に存在していますし、日本語が手本にした言語です。
アルファベットもそれだけで言語として成り立っているものです。
日本語は、4種類の言語を操っていると言ってもいいのです。
ひらがなは、漢字から生まれていますが、文字のなかった時代の言葉を継承している言語です。
漢字は、新しい文明を運んできただけでなく、明治維新以降は更なる先端文明を表現することに成功した言語であり、これからの先進文明を作っていく言語です。
カタカナとアルファベットは他の言語との変換や翻訳には欠かせない言語です。
ひらがなと漢字の混ざり合った文字(和漢混淆文)を標準の表記方法として持っている日本語は、世界で唯一の伝統文化と先進文明を同時に表現して感覚を伝えることができる言語となっているのです。
単なる表記の方法としての文字の種類の多さだけだとしたら、ここまであらゆる方面に広がり使用され続ける表記方法にはなっていないのではないでしょうか。
そのおかげで、他の言語ではできないようなあらゆる表現に対応できる表現力豊かな言語となっているのです。
言語としての能力は素晴らしくとも、それを使うのは人です。
言語は人に表現されて初めて言語となります。
世界のどんな言語に翻訳する場合においても、その言語の特性に合わせた表現をできるのが日本語なのです。
相手の言語に合わせた表現をすることによって、翻訳者が余分な感覚を働かせる必要なく直訳的におこなっても、彼らの感覚に沿ったものとすることができるのです。
そのためには、相手の言語感覚を知っていなければなりません。
日本語は日本語話者にしかわからない感覚を持った言語です。
その感覚は世界には通用しないものです。
しかし、その表現能力は世界のあらゆる言語感覚に対応出るだけのものを持っていると思われます。
その能力を生かすためには、日本語話者こそが世界の言語を学ばなければならないでしょう。
彼らの言語で表現されたものを日本語に翻訳することは、比較的簡単にできます。
日本語で表現されたものを彼らの言語に翻訳する場合には、他者に頼ることが多くなります。
その時にこそ、彼らの言語の特性をわかったうえでの日本語表現ができることが必要になります。
日本語は世界の言語界の孤児ですので、日本語で押し付けても何も理解してもらえません。
興味を持ってもらうことによって、日本語を少しでも理解してもらえる努力は必要ですが、それ以上に私たちが世界の言語、特に共通語としての英語については、日常会話よりも知るべきことがあると思われます。
それを踏まえた日本語表現によって世界に発信していくことが求められているのではないでしょうか。
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