知識としてのインプットに偏った学校教育ということができると思います。
そうなると教育の効果を確認するための試験も、知識の確認のためのものとなるために、記憶力に頼ることが多くなります。
個人としての能力評価も、何ができるかよりも何を知っているかのほうが重視されるようになり、実際にできることよりも潜在能力として持っている知識の方が認められるようになります。
何のアウトプットがなくとも、持っている資格や出身大学によって評価されるようなことが起こります。
同じアウトプットに対しても、個人として持っている資格や出身大学によって評価が違ってしまったりします。
その資格がなければできないような職業でなくとも、様々なランクを持った検定試験が多数存在しています。
学校教育では知識を詰め込むことが優先されてしまうために、その知識を使って表現するアウトプットがほとんどできていないまま社会に出ることになります。
中には、学校の延長のような就業環境もありますが、ほとんどの場合は社会生活で求められるのはアウトプットです。
それでも、純粋にアウトプットで評価をされる環境にはないことがほとんどです。
日本人は、人を評価するときには、持っていると思われる潜在能力で判断することが多いようです。
会社における人事考課も、実績だけでなく必ず資格取得や個人の能力査定的な要素がかなり加味されています。
どうやら、私たち日本人はアウトプットが苦手なだけでなく、個人のアウトプットを評価することも苦手なようです。
アウトプットを評価しよとすると、どうしてもその人の全人格的な能力評価となってしまい、純粋にそのアウトプットを評価することができないようです。
全く知らない聞いたことのない人のアウトプットを評価するときに、自分一人で純粋にそのアウトプットを評価する基準を持っていないのだと思います。
したがって、どうしても個人に関する他の情報を必要とし、それらの情報に評価の根拠を求めようとするようです。
それは、自分の持っている既存の知識による個人的な基準での評価として行われますが、この評価をアウトプットすることがまた苦手なのです。
感想は表現することができても、評価は個人で行うものではないという感覚があるために、必ず客観的と思われる根拠を見つけようとします。
アウトプットからそれを判断することが苦手ですので、どうしても一般的な能力と言われるものに頼ることになります。
結果として、全人格的に持っていると思われる潜在能力に対しての評価となってしまうのでしょう。
このことは、何かの情報を得るときにも働いていることです。
人の話を聞いているときに、その内容を選別しながら受け入れることが起こります。
話しを聞きながらも、既に自分の持っている知識でフィルターをかけているのです。
特に起こりやすいのが、何かを学ぼうとする場面です。
自分の意志で何かを学ぼうとしているのに、自分の持っている既存の知識がそれを邪魔するのです。
学ぼうとしている自分の意識の中でも、既に聞いたことのある言葉や断片的な知識として持っていることもたくさん出てきます。
それらのことに出会った時に、すでに知っていることとして受け入れを拒否することが起こります。
そうするとその周辺のことまでが、なんとなく知っていることの様にに感じられて拒否してしまうことが起こります。
自分で学ぼうと意識していても起ることですので、少しでも学ぶことに対して否定的な意識があればより強く出ることになります。
実際には自分の知識とは違っていても、言葉や感覚として似たものがあると、すでに知っていることとして排除してしまうことが起こるのです。
このことが頻繁に起こると、学んだことそのものに対して、「学ぶものが少なかった。」「役に立たなかった。」という評価になってしまうのです。
似たような言葉を聞いただけで。自分の知識として持っているものに置き換えてしまって解釈をしてしまうのです。
同じことを聞いても、一人ひとり受取り方が異なったり、感じるところが異なったりするのは、その人が持っている既存の知識の影響です。
今までのインプットや経験によって蓄えられた知識が、新しい情報をブロックしてしまっているのです。
このことは、話を聞くときによほど意識していないと自然に起こることです。
話しだけでなく、何かを読んだ時も同じですね。
同じ本を読んでも人によって得るものや感じ方が異なるのは、既存の知識による影響です。
まずは、素直に人のアウトプットを何のブロックもせずに受取ることを意識したいですね。
そこからアウトプットに対する付き合い方も変わってくるのではないでしょうか。
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