2014年9月5日金曜日

仮名手本忠臣蔵からの妄想

「いろは」に隠された怨念では、仮名手本忠臣蔵というタイトルにも「咎なくて死す」が隠されていることを見てきました。
(参照:「いろは」に隠された怨念

しかし、史実ではあるはずの忠臣蔵は、よくわからないことがとても多い話しとなっています。

まずは、物語のスタートである松の廊下での浅野内匠頭が吉良上野介に切りかかったとされる動機が全く見えてきません。


更に、一番最後もよくわからないことになっています。

吉良を打ち取った四十七士は、泉岳寺で切腹を命じられ、浅野内匠頭とともに泉岳寺に葬られています。

泉岳寺は下の高札の二行目に見るように家康が建てたものです。



初めは桜田門外に建てられたものでしたが、寛永の大火(1641年)で消失してしまいました。

その後に家光の命によって、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名により、現在の高輪の地で再建されました。

そんな縁もあって、江戸における浅野家の菩提寺的な役割を持っていました。


四十七士は表向きには幕府の命に逆らった犯罪者です。

いくら泉岳寺が、浅野家の菩提寺的な存在としてあったとしても、建てたのは徳川家です、徳川の寺です。

そんな寺に、何故、徳川幕府の犯罪者である赤穂四十七士が葬られているのでしょうか。

明らかに幕府の命によってこの寺に集められ、この寺で自害したことに間違いはないのです。


その後をよく見てみましょう。

討ち入り後の吉良家は数年をかけて滅亡への道をたどっていくのです。

実子の綱憲は父を救えなかったことを悔やんで、一年後に悶死します。

実孫の左兵衛は、討ち入りの夜には深手を負いながらも赤穂浪士と戦って気絶までしています。

しかし、徳川幕府は「父を守らなかった」として、吉良家を断絶させ領地を没収しています。


一方、浅野家はその後幕府によって復活されています。

赤穂浪士の息子たちも一旦は配流となっていますが、すぐに許されてすべてのものが父親以上の条件で諸藩に召し抱えられています。

表向きには、喧嘩両成敗を貫いたかのように見えますが、幕府の吉良家に対する仕打ちは意図したものとしか思えないものがあります。


吉良家の領地は、家康の生まれた松平家の領地であった岡崎と接しており、矢作川の上流と下流の関係にありました。

旧矢作川の河口では、運ばれてきた土砂の堆積によって、吉良家は塩田を広げさらには田への転用を続けており豊かな領地となっていました。

吉良家は、武家の中でも足利将軍に近く、時には将軍家の代理を務めたこともある、朝廷における武家の代表のような地位を持っていました。

武家の代表として朝廷における意見を伝える立場を有していた、特殊な立場を持っていました。


関ヶ原の戦いの後で、家康が朝廷から征夷大将軍の名を賜ることができたのは、吉良家の活躍があったからだと言われいます。

また、征夷大将軍を事実上の世襲として認めさせた、家康の将軍職(征夷大将軍)の引退と秀忠の征夷大将軍の襲名においても朝廷での工作を一手に行ったのが吉良家でした。

他の武士では代わることができない、朝廷における圧倒的な影響力を持った武家でした。


そのために、徳川家としても朝廷との交渉事や礼儀や行事を教える、高家の筆頭としての立場を与えざるを得なかった相手です。

朝廷の権威を必要とする場面では、必ず登場してもらわなければならなかった者です。

しかも実際の交渉の場面に立ち会うことはできませんので、事実上の武家における朝廷の権威の実施者ということができるでしょう。


元禄14年(1701年)の春に朝廷からの使者を迎えようとしたときに起きた、松の廊下の事件により幕府は長年の吉良家との戦いに終止符を打とうとしたのではないでしょうか。

この事件のあった年に幕府は、吉良家を高家の立場から外します。

そして赤穂浪士の敵討ちの噂が漏れ聞こえる頃には、幕命によって郭内にあった吉良家の屋敷を両国橋を渡った下総の国である本所へと移転させるのです。

両国橋は読んで字のごとく、二つの国にまたがった橋です。

江戸のある武蔵の国と下総の国とをつないだ橋であり、橋を渡った先は下総の国です。


その当時の本所は各藩や問屋の倉庫街であり、明暦の大火(1657年)で亡くなった10万を超える人を葬った回向院が設けられたところです。

江戸市中の賑やかさとはかけ離れたところであったことは間違いありません。

討ち入りを行うには、周りへの迷惑をかけることもなくまさしく最適の場所であったということができます。


移転前の吉良家の屋敷は、北町奉行所のすぐそばであり、その周りには北町の同心屋敷が密集しており、とても討ち入りができるような環境ではありませんでした。

移転から半年程度で行われた討ち入りを考えると、討ち入りのために吉良屋敷が移転させられたとみる方が正しいのではないでしょうか。

武家屋敷の配置は幕府の専権事項です。

赤穂浪士の噂が流れる中で、わざわざ吉良屋敷を本所へ移転させた訳は、討ち入りをやらせたかったからとしか考えられません。


更には、江戸に潜んでいた赤穂浪士四十七士のうち十六人が麹町近辺に潜んでいたと言われています。

このあたりのことは、マニアがかなり詳しく調べており四十七士全員の江戸での所在も明らかになっているところでもあります。

ここで問題は麹町と言う地区です。

幕府にとって一番警戒厳重な最重点警備の地域なのです。

このことについては半蔵門の名前を調べた時に見たとおりです。
(参照:江戸城の門の名前


ひとことで言えば、警視庁のすぐ横にテロリストが団体で潜んでいるようなものです。

もっと言い方を変えれば、警視庁の中にテロリストが隠れているようなものです。

このような状況を適した言葉で言うとしたら、警視庁によってテロリストがかくまわれているということになるのではないでしょうか。


つまり、赤穂浪士は討ち入り決行から泉岳寺への引き上げまで、すべてが幕府によって周到に用意されていた舞台で踊っていたのではないでしょうか。

関ヶ原から100年を経過し、完全に全国を掌握して安定した権威を築きあげた徳川家は、朝廷の飾り物である吉良家を必要としなくなっており鬱陶しい存在であると考えていたと思われます。

しかし、幕府の権威が朝廷から付与されているものである限り、どんなことがあっても朝廷の機嫌を損ねるわけにはいきません。

朝廷を守るために存在した武家の存在が、戦のない世の中になって朝廷がどのように扱おうとするかは目に見えていることです。

その朝廷の機嫌が、吉良の一言で変わってしまう危険をいつまでも放置するわけにはいかなかったのではないでしょうか。


また、太平の世に慣れきった戦を知らない武士たちは、主君のためにする具体的な行動が見えなくなってきてい ました。

そんな時に起きた「忠臣蔵」は吉良家の滅亡と言う直接的な利益は勿論のこと、主君のために辛酸を味わってでも尽くすということを精神的に植え付けるという間接的な利益においても、徳川家の強力なバックアップのイベントとなったのではないでしょうか。


江戸に出入りする大門は、東海道の高輪、甲州街道の四谷、中仙道の板橋であり、象徴的な存在となっていました。

その大門が移転されたのは高輪だけです。

しかも1km程度のことです。

新たにできた大門は、泉岳寺の門の目の前です。


品川宿を目の前にして、日本で一番人の往来の多い大門は、必ず人が立ち止まるところでもあります。

そこにある泉岳寺は、「忠臣蔵」のテーマパークのようなものです。

徳川幕府がこのテーマパークを運営していたのです、大門の位置までを変えて足を止めて泉岳寺に入場しやすくしていたのです。

全国から来る人や、全国に向かう人にとって「忠臣蔵」は江戸の土産のようなものではなかっでしょうか。

土産店で売る忠臣蔵グッズは、江戸土産の定番となっていたのでしょう。


今現在まで続く、忠臣の誉れとして日本人の精神に深く根付いている忠臣蔵は、表向きの解釈とは別に、幕府による100年以上の時間をかけた朝廷との権力の綱引きであったとみることができるのではないでしょうか。

「咎なくて死す」から見てきた忠臣蔵は、なんだかいろいろな想像を掻き立てくれます。

言葉を意識して古地図を見てみるのも面白いですね。





「日本語のチカラ」がEラーニングで受講できます




ブログの内容についてのご相談・お問合せを無料でお受けしています。
お気軽にご連絡ください。

コメントを投稿