2014年9月3日水曜日

思考するための最高の言語:日本語

思考のための言語と表現のための言語では、使用する言語が違うことを見ていきました。
(参照:思考言語と表現言語

そこでは思考活動は個人活動になるので、自分だけしか理解できない言語であってもかなわないことを述べてきました。

反対に、表現活動のための言語は、相手に分かってもらおうとするほど相手の言語を使わなければなることも述べてきました。



世界の言語における日本語の立場は、完全な孤児と言えるものです。

仲間がいません。

したがって、世界に対して日本語を母語とする者が本当の理解をしてもらうためには、日本語ではなく相手の言語で表現をする必要が出てきます。

自分たちの母語が公用語となっているメリットは計り知れないものがあります。

しかし、残念ながら主な国際機関で、日本語が公用語となっているところを聞いたことがありません。


日本語は身につけるのが世界で最も難しいと言われている言語の一つです。

その代り、日本語を母語として持っている場合には、世界の他の言語を使いこなすことが比較的簡単にできるようになっているようです。

日本語は、世界の言語のなかで最も多くの表現方法を持った言語であると言われています。

その日本語からすれば、他の言語の規則的かつ直接的な表現方法は、パターンさえつかんでしまえば思っていたほど難しいことではないようです。


しかも、日本語と中国語以外の言語においては、話し言葉を中心としたコミュニケーションで成り立っています。

聞き取れないことには会話になりませんので、訛りや方言に対して聞き取ろうという姿勢があります。

そのため、母語話者以外の話であっても自分の言語を使ってくれている限りにおいては、一生懸命に理解しようとしてくれます。

また、似たような音であれば推測できる技術も高度なものを持っています。


そのことについては、他の言語に比べれば話し言葉のウエイトの少ない日本語においても、他の母語話者が一生懸命に日本語で話す場合には何とか理解してあげようとするのと同じことと言うことができるでしょう。

話し言葉主体の彼らの言語においては、さらにその傾向が強いことがうかがえます。


世界で一番ややこしい言語を持っている我々は、持っている言語のおかけで、他の言語の習得が比較的簡単にできるようになっているようです。

このことは、思考活動においての広がりの大きさを持っていることにつながります。

思考言語は表現言語とは異なり、完全な個人的な言語で構わないのです。

これだけの表現能力を持っている日本語はあまりにも大きな言語のため、母語として日本語を持っている人の日本語そのものが人によって異なっているとも言うことができます。

同じ母語としての日本語話者であっても、持っている日本語は一人ひとり異なっていることになります。


日本語同士で会話をしているから、お互いに分かり合っていると思ったら大きな間違いだということになります。

それだけ、日本語はとてつもなく大きな言語であると言えるでしょう。


その分、思考言語としてはこれぼど適したものはないということになります。

特にアイデアや発想の広がりは、他の言語の比較にならないものだということができます。

問題は、その特徴を使いこなしているかどうかということになります。


枠にはまった思考や、限られた知識に縛られた思考では、せっかくの日本語のチカラを生かしていないことになります。

日本語で思考していると、何らかの枠をはめないとどこまででも発想が広がっていってしまいます。

そうなると、もう発想であるのか妄想であるのかわからないことになっていしまいます。


同じ言葉であっても使用する文字やアクセントによってもニュアンスが変わってきます。

多くの文字種を持っているうえに、「ひらがな」というとんでもなく広い感覚を持った使い方もあるのです。


三つの知的活動(認知活動・思考活動・表現活動)は、母語で行うことが一番効率がいいことはわかっていることです。

しかし、認知活動と思考活動が個人的な活動として自分の持っている言語だけで完結できるのに対して、理解を得るための表現活動だけは相手の言語を意識しなければなりません。

母語で表現活動を行なうことが、自分自身にとっては一番楽なのですが、それでは理解されないことにつながってしまいます。

したがって、相手の持っている言語への翻訳が必要となるのです。

日本語はとても豊かな表現方法を持っています。

つまりは、相手の言語に翻訳するのに適した日本語での表現ができるのです。


相手の言語の文法・語順や時制の制限に合わせた表現を、日本語でしておくことによって、より的確な翻訳を可能にすることができます。

同じ内容を、日本語で表現しても相手は理解しようとしてくれませんが、相手の言葉であれば一生懸命理解しようとしてくれます。

そのために、相手の言語を知る必要があるのです。


最高の思考言語を生かすも殺すも、表現活動次第となることがよくあります。

相手の言語をわからずに、一方的に自分の言語で表現したら、同じ日本語でも理解されないでしょう。

日本語で表現する場合には、母語としての日本語の共通語である国語をうまく利用しなければいけません。

更には、国語の中の最も基礎的な「ひらがな」をうまく使わなければいけません。
(参照:あえて「ひらがな」で書いてみる

日本語の持つ表現力の豊富さと感覚の広さから見れば、表現言語としての英語は極めて限られた表現力しかありません。

これからの日本語のあり方は、英語の存在を抜きにしては考えられないでしょう。

しっかりとした日本語で、知的活動の力を付けたうえで、表現言語として英語を持っていることが理想の姿になっていくのではないでしょうか。


学校教育で表現技術を学ぶ機会のない日本の言語教育においては、基礎的な言語力が身につく中学生以降で、英語による表現技術を学ぶ方がいいのかもしれませんね。

それによって、日本語による表現技術も磨くことができるかもしれないです。

少なくとも、知的活動における最高のツールとしての日本語は、絶対に手放してはいけないものですね。



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