25日の朝は、仲間由紀恵が演じる宮本蓮子(白蓮)がラジオ放送で、戦争で子どもを失った思いを語り平和への覚悟を語りかける場面でした。
平和とはわが子の命を守るための母親の具体的な行動であることを思い知らされました。
抽象的な言葉であるがために、単なる概念としてしか理解できない「平和」が、極めて身近な具体的な行為として感じることができた瞬間でした。
日本は、太平洋戦争によって「平和」の大切さとありがたさを学びました。
あれだけ多くの犠牲を出し、身近な人をたくさん失ったことによって、平和のためには絶対に戦争をしてはいけない、戦争によって平和は手に入らないことを学びました。
日本国憲法の戦争放棄の内容は、当時のロシアが描いていた理想国家としての憲法が原案にあると言われています。
日本では、8月15日を終戦記念日と言います。
全面無条件降伏を受諾した日であり、完全なる敗戦が確定した屈辱の日です。
終戦記念日という言葉には、敗戦や屈辱という感覚はほとんどありません。
それよりも、終わってよかったという感覚の方を強く感じるのは私だけでしょうか。
戦争を記念日とするする場合には、当事者であった立場によってその呼び方が大きく変わります。
戦勝の当事者か敗戦の当事者か、あるいは中立の当事者かによってさまざまな呼び方となります。
これも日本語の妙ではないでしょうか。
戦(いくさ)、乱(らん)、内乱(ないらん)、役(えき)、事変、革命、紛争、内紛、空爆、テロ、
これらはすべて戦争です。
今も世界のいたるところで、毎日のように起きていることです。
アメリカの駐日大使にケネディ氏が就任しました。
日本人がケネディ米国大使を歓迎する姿を見て、中国人や韓国人の多くは疑問を感じたそうです。
(ネットにも投稿がたくさんありました。)
「日本にとってアメリカは第2次大戦で戦い、しかも原爆まで落とされた敵(かたき)ではないのか。」
その日本がアメリカから多くのことを学び、さらには世界で一番親しさを感じ尊敬する国として挙げていることが、彼らとしては信じられないこととなっています。
ブログの筆者は決して日本を非難しているわけではありません。
続けて以下のようにも言っています。
終戦後もいつまでも日本を憎しみ恨む中国と比較して、「我が国は、いつになったら日本を憎むことを終えて、日本から学べるようになるのだろうか。」と述べています。
中国や韓国にとっては、「反日」は政治上におけるテーマになってしまっています。
中国では、国民の様々な不満を日本に向けさせることに「反日」を利用し、韓国では国民の支持を得るうえで「反日」が利用されています。
義務教育においては、徹底した「反日」が取り上げられており、戦争の事実を確認することすらできない子供たちに刷り込みが行われています。
日本人は中国人や韓国人のように、過去の戦争の歴史でアメリカを責めるようなことはしていません。
その理由として、敗戦国として発言権をなくしていたことや、戦後処理のアメリカの進駐軍による教育内容や報道管制などが挙げられています。
しかし、一番の理由は、義務教育における徹底した平和教育ではないかと思われます。
その象徴の一つが、敗戦記念日ではない終戦記念日という言葉ではないでしょうか。
今まで何度も見てきたように、人の持っている言語には三つの要素があります。
人としての基本機能を作っていく母語、生きてて行くための知識やルールを身につけていく国語、社会に出て暮らしていくための生活語です。
生きていくための知識やルールを身につけていく国語の段階で、「反日」を刷り込まれた子供たちは、はたして生活語のなかでそれを払拭していくことは可能なのでしょうか。
赤信号で止まれと刷り込まれてきて、これを守らないと生命の危険さえある社会のルールと同様に「反日」があることをよく理解している筆者が最後に言います。
終戦後いつまでも日本を憎しみ、恨む中国と比較し、「わが国はいつになったら日本を憎むことを終え、日本から学ぶようになるのだろうか。日本とともに未来へ歩んでいける時代が来るのはまだまだ先のようだ。」と述べています。
世界における日本語による発信力は、ほとんどないと思った方が良いようです。
敢えて日本を気にしている個人なり組織が、取り込もうとしない限り、自然に伝わっていくことはありません。
生きていれば自然に触れている英語とは、全く次元の異なった言語だからです。
その日本語の特殊性は、日本人の感覚の特殊性ともリンクしてしていることです。
そこには、実際の言葉として現れていないことの理解が必要であり、言語を直訳的に翻訳して理解しようとしてもできないことがたくさん含まれています。
日本語は日本語を母語として持っている人にしか通用しない言語です。
世界に対しては通用しない言語です。
日本の日本らしさを世界に発信するためには、行動で発信していくことが望まれます。
何をしているのか、どんなアウトプットをしているのか、それはどんな結果を生んでいるのかなどです。
それによって日本に、日本人に、日本語に興味を持ってくれた人たちの探求心にゆだねることになると思います。
アメリカを師と仰ぎ学んできたことは、あの戦争で学んだ「平和」を行動で示したことに他なりません。
中韓の教育では不思議に思うかもしれないことが、日本では問題にもなっていません。
不思議に思った彼らが、考えるべきことであって、日本が何かを言うべきことではないのです。
第2次大戦は、世界の多くの国が当事者となり同じ戦いに参加しましたました。
しかし、そこから学んだことはそれぞれの国や個人によって異なります。
また、伝承の過程によっても内容が異なっていきます。
時間がたてばたつほど、史実はあやふやになっていきます。
今は、どう伝えていくかが大切になってきています。
自ら学んだこともあったでしょう、押し付けられた論理もあったでしょう、強制されたこともあったでしょう。
それでも、「終戦」という言葉で定着させた日本は、誇れる国だと思います。
しっかりと、その思いと言葉を伝えていきたいですね。
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