(参照:アウトプットの苦手な日本人)
その大きな要因が二つあります。
一つは、学校教育においてインプットのための教育しか受けていないために、アウトプットの経験がほとんどないこと。
もう一つが、精神文化的に自己主張や個人の意見の表明をすることを決して良いこととしないことがあります。
そのために、多言を嫌い、表現された言葉以外の行間読むことが求められます。
これは日本語が持っている性格であり、外人であろうとも母語として日本語を持っている人には共通した特徴となっています。
アウトプットのための技術は、日本語以外を国語とする外国の方が圧倒的に進んでおり、学校教育においても中心的な身につけるべき能力として位置付けられています。
日本の小学校にあたる低学年より、個人の意見や主張することを国語教育として学び始めます。
アメリカにおけるディベートやイギリスにおける演劇を利用した表現教育など特徴あるカリキュラムがたくさんあります。
アウトプットは言語によってなされます。
したがって、言語が異なればアウトプットのための技術が異なるのは当然と言えます。
違う言語のアウトプット技術を持ってきても、役に立たないのは当たり前なのです。
それでも他の言語のアウトプット技術が利用できないわけではありませんが、そこには言語による違いが考慮されたものとなっていなければなりません。
そこまで考慮されたアウトプット技術については、ほとんどお目にかかったことがありません。
言葉ですべてを伝えることを前提とし、受け取った言葉による情報だけですべてを判断する英語のアウトプット技術と、行間を読んだり言語以外の情報も読み取らなければ成立しない日本語のアウトプットは、ある種技術としては対局にあるものと言えるでしょう。
アウトプットの目的は、理解してもらうことと理解の上に行動をしてもらうことです。
同じカテゴリーとしての言語としての英語であっても、一人ひとりが持っている英語は微妙に異なっているものとなっています。
アウトプットは相手に理解してもらうことが前提になりますので、相手の持っている言語にいかに近づけるかが大切になります。
義務教育よりアウトプットに慣れている彼らは、相手の言語に近づける能力を身につけています。
アウトプットをしながらも、相手の反応や態度を見ながら使用する言語を調整する能力を身につけているのです。
日本語は、その表現の豊かさも手伝って、一人ひとりの持っている日本語の差がとても大きな言語なっています。
しかも、ほとんどアウトプットのための技術を身につけていないために、相手の言語に近づけるための能力が身についていません。
更には、表現されている言語以外の感覚によるコミュニケーションも重視されるために、行間を読む能力がある種パターン化されて身についています。
相手の言葉によって表現することに慣れていないために、自分の言葉での表現が多くなります。
聞き手はそれを何とか自分の言葉によって理解しようとしてしまうために、頻繁に誤解や間違いが起こることになります。
現実に起きた違いに対しても、直接的に間違いを指摘することが失礼にあたるというような精神文化を持っているものですから、間違っているとわかってはいても少しでも好意的に受け取ろうとすることが起こります。
結果として英語によるコミュニケーションに比べると、曖昧なものとならざるを得ないのです。
アウトプットのための技術として一番大切なことは、アウトプットする対象者をしっかりと設定することです。
そしてその人の持っている言語を確認してできる限り近づけることが必要になります。
伝えたいこと、理解してほしいことは、初めは自分の言葉で表現することになるはずです。
しかしそれをアウトプットするときには、相手の持っている言語に翻訳しなければなりません。
日本語同士の間でも翻訳という行為が必要になるのです。
日本語を持っている人の特徴から考えると、正確な理解をしてもらうためには、かなり正確に相手の言語をわかっていないと難しいことになります。
だから日本語によるアウトプットは、相手に正確な理解を求めることよりも相手の感情を動かすことに焦点が置かれるのです。
英語を母語とする人達は、論理と正確な理解によって行動を起こします。
日本人は、感情によって行動を起こします。
アウトプットの目的が、理解の上の行動にあるとしたら最終目的は望む通りの行動をしてもらうことになります。
そのためには、理解が犠牲になっても構わないことになります。
英語話者は、理屈や理解に適った行動でないと納得しません。
日本語話者は、理屈や理解よりも感情に適った行動を採ります。
感情を動かすにも、相手の言語は必要ですが、正確な理解をしてもらうためのほどのものは必要としません。
感情を動かすためには、非言語によるアウトプットの方が効果が高い場合もあります。
日本語話者を対象とする、アウトプットは理解を目的とするとうまくいかないことが多くなります。
しかも、一度に多くの対象者がいる場合にはさらに難しくなります。
学校教育においてあれだけの人数に対して共通的な理解が可能なのは、持っている言語が国語という共通語がほとんどだからです。
社会に出て、それぞれの環境における言語である生活語が増えていくと、一人ひとりの日本語の差が一気に広がっていきます。
(参照:あなたの日本語、わたしの日本語)
学生の時には、多くの人数でも簡単に共通理解ができたのに、社会人生活が長くなった人たちが集まると難しくなるのです。
日本語話者であっても、英語話者に対してするアウトプットは彼らの言語と受け方を知っていなければなりません。
英語話者にとっては言語がすべてです。
「このくらいは言わなくてもわかるだろう」や「ここまで言うのは失礼だろう」が大きな違いになっていきます。
英語によるプレゼンテーション技術を身につけても、英語話者にしか通用しないのです。
日本語話者には役に立たないのです。
これは、あらゆる種類のメソッドに当てはまることです。
英語で考えられたメソッドをそのまま直訳的に日本語にすると、言語ですべてを表していますので、内容はとてもわかりやすいものとなっています。
しかし、それでは日本語話者は行動しないのです。
彼らは不思議がります。
良いことで効果のあることだと理解できているのに、なんでその選択をしないのかがわからないのです。
理由は簡単です。
日本人で日本語話者だからです。
英語は世界の公用語です。
英語と同じような性格を持った言語は世界中にたくさんあります。
日本語は日本でしか通用しません。
世界を相手にするときには、相手の言語感覚を持たなければ理解してもらえません。
世界は、個人的によほどの必要に迫られなければ日本語を学ぶ必要がありません。
日本人は、英語を学ばなければならないのでしょうか。
英語話者の言語に対する感覚を学ぶためだとしたら、Yesです。
しかし、それは言語としての英語を学ぶこととは違います。
英語話者の言語に対する感覚を学ぶことができたのならば、日本語→英語の翻訳は自分でやらないほうが有利になるでしょう。
普段の英会話には何の不自由のないビジネスマンでも、ビジネス上の交渉においては通訳を利用するそうです。
その方が、自分の母語ではない相手の英語を客観的に判断できるからだそうです。
英語で考えられたものは、英語話者を対象としたときのアウトプットにしか役に立たないことを知っておくことは大切ですね。
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