日本人が共通の環境に一定期間いるのは、義務教育の間だけだからです。
高校以上になると、使用する教科書やカリキュラムなどがかなり個性を持って組まれており、共通した特徴を形成するまでにはならないだろうと思われます。
その中でも特に、言語についての国語教育が決定的な影響力を持っていると考えられます。
言語教育の到達点は、生きていくためのコミュニケーション能力である表現力(アウトプット力)を身につけることにあります。
ところが日本の国語教育においては、表現力についてはほとんど教えることができていないのです。
いろいろな要因はありますが、一番大きな要因は日本語自体の問題だと思われます。
知的活動の唯一の道具が言語であることは、すでに定説となってきました。
その言語の基本的な部分を身につけるだけでも、義務教育の期間ではできていないのです。
社会的な一般情報源として新聞があります。
義務教育を修了した者であれば、新聞を読んで理解できるのは当たり前の到達点となっていることが望まれます。
ところが現実の姿は、義務教育で身につけた漢字や言葉だけでは新聞を読むことができないのです。
世界の先端文明の中でも、こんなことが起きている国は日本くらいのようです。
中国の義務教育では、中学生でもまともな文章が書けないことは有名な話ですが、新聞を読むことはできているようです。
国体護持のために自由な表現ができない教育となっていることも、その要因となっており、自分の意志を自由に表現したものは評価が悪くなるようになっています。
日本の国語教育の場合には、扱っている言語である日本語が他の言語に比べてあまりにも大きなために、基本的なことを身につけるだけでも膨大な時間を必要としています。
そのために学校教育の中では、文字や言葉を覚えて、様々な文章を読解できることが中心になっています。
本来の表現をする力は、それらの後に来るものになっていますので、学校教育ではほとんど学ぶ機会がなくなっているのです。
その結果、アウトプットされたものは、本人が持っているものや理解していることをきちんと表現できていないことが多くなってしまいます。
結果だけを見て人を評価してはいけないとか、一面だけを見て人を評価してはいけない、などと言うことは、アウトプットでは評価したくないことの裏返しです。
ところが、評価されるべき対象はアウトプットであり、表現した人が持っている知識や経験(ポテンシャル)ではないのです。
アウトプットが苦手な日本人は、とかくアウトプットに対しての評価を避け、人に対する評価に置き換えてしまうことをします。
反対に、アウトプットに対してなされた批判は、個人の全人格的な批判として受け止めてしまいがちになります。
アウトプットを評価するときにやりがちなのは、「今回のアウトプットは彼の持っているものの一部です。彼の能力はずっと高いところにあります。」というようなことです。
アウトプットは目的をもって表現されたものであり、目的を達するための相手がいるものです。
その人が目的に適っているかどうかを評価する物であり、基準や比較による評価の対象となる物です。
そこにおいては、アウトプットした人のポテンシャルは関係ありません。
実は、アウトプットの苦手な日本人は、人のアウトプットに対しての評価も苦手と言う傾向があります。
アウトプットとしての評価と個人の持っているポテンシャルがかぶってしまうのです。
「YDK」という言葉がテレビで流れています。
どこかの塾のコマーシャルだったような気がしますが、「やればできる子」のことだそうです。
つまりは、すべての子どものことですよね。
日本人は、褒められれることよりも認められることを喜びます。
褒められることは、アウトプットした結果に対して行われることです。
認められることは、ポテンシャルに対して行われることです。
ですから、結果として1位になれなかったとしても、周りから1位になれる力が十分あるなどと持ち上げられると、そこで認められたことで満足してしまって終わってしまう人がたくさんいます。
アウトプットの結果として認められたことは事実として残ります。
ポテンシャルを並べ立てることがよくあります。
しかし、それはポテンシャルであってアウトプットの質を保証しているものでも何でもありません。
ポテンシャルに騙されるなとは、自分自身に対しても同じことです。
何かの資格を取るために一生懸命努力して、資格を取りました。
その資格を持っていることで、いろんな人に認められました。
それで、あなたは何をアウトプットするのでしょうか?
相手の目的に適ったアウトプットを提供できて、初めて対価を得ることができます。
ポテンシャルで評価されるのは、新入社員の採用の時くらいのものでしょう。
それでも次の瞬間から、評価の対象はアウトプットになっていきます。
日本の企業の人事考課の中には、ポテンシャルを評価するような内容もかなり残っているのではないでしょうか。
アウトプットをどんなに批判されようとも、それは個人に対しての批判ではないのです。
したがって、アウトプットを評価するときは個人のポテンシャルを評価に乗せてはいけないのです。
純粋にアウトプットを評価しなければいけないのです。
誰がアウトプットしたものなのかは関係ないのです。
ましてや、どんなポテンシャルを持った人がアウトプットしたかは関係ないのです。
アウトプットした人のポテンシャルを確認して、「なるほどな、やっぱりな」と言うことはあるかもしれません。
それは自分のなかで、アウトプットの結果とポテンシャルの関係を見つけているにすぎません。
これを頻繁にやってしまうと、持ってるポテンシャルや個人のネームバリューによって、アウトプットの評価が変わってしまうことがあります。
やってはいけないことです。
アウトプットの評価に対して、個人として落ち込む必要は全くないのです。
評価する側の目的に対して、自分のアウトプットが合わなかっただけのことです。
それだけにアウト分に際しては、目的を両社が厳格に共有しておく必要があるのです。
そこがしっかりしているからこそ、アメリカではアウトプットの結果評価に対して、目的に沿った選択基準から見たらおかしいとクレームが出てくるのです。
ここの部分がうやむやなのが日本社会ですね。
社会全体がアウトプットに対して、慣れていないのです。
アウトプットすることに対しても、アウトプットを評価することに対しても慣れていないのです。
義務教育の低学年から徹底的に表現する技術を教えられて、アウトプットするための国語教育を受けてきた欧米の人たちにとっては当たり前のこととなってることです。
このことが社会生活のための共通基盤となっているのです。
先進文化圏においては、日本だけが異なっていることです。
このことが言語や言語教育からきている根本的なことである限り、私たちには無意識の感覚として染み込んでいます。
欧米の理論を持ってきて、理解はできても、最後の運用の末端でうまくいかないのはほとんどはこれが原因です。
評価されるべきものはアウトプットであり、人ではありません。
人は人を評価できるものではありません。
だからアウトプットを評価するのです。
ポテンシャルは人そのものです。
アウトプットの苦手な日本人は、どうしても人を評価してしまいます。
気を付けたいですね。
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