2014年8月7日木曜日

日本語の向こうにあるモノ(2)

人事を尽くして天命を待つ。天は自ら助くるるものを助く。

日本人にとっては、人の力の及ばないところのものは、神であり、仏であり、天なのだという感覚ですね。。

先回のアンケート結果からもわかるように、ほとんどの日本人が何か神的なものを信じているのです。

でも、同様にほとんどの人が実際の存在としての神は信じていないのです。

東ドイツのように、神(的なもの)を信じない人が半分いて神の実際の存在を認めない人がほとんどの場合は理由がつきますが、日本においては神(的なもの)を90%以上の人が信じているのにその現実的な存在については95%以上の人が信じていないという結果なのです。

彼らの論理で考えると理解のできないこととなっているのです。


多神教であり無神教でもある日本人であっても、この感覚は実に90%以上の人が持っていることになります。

彼らの思考のもとである二元論であるで考えると、神は「いるのかいないのか」ということになってしまいます。

議論の結果として、「いる」という多数決になっていることになります。

日本人の持っている中庸の論理で考えると、「神的なことはあるが、実際の神はいないのだろう」となるのではないでしょうか。


現実の言語については、人知の及ぶところです。

もちろん人知の及ぶところでの努力は当たり前のことです。

しかし、日本語を母語として使っている人たちは、その人知を超えるところの存在を共有しているのではないでしょうか。

しかも、その領域が自分(「I」)や対象(「You」)をも包含していることを、無意識のうちに感じているのではないでしょうか。

言い換えれば、神なり仏なり天なりの中に自分や対象が生かされているという無意識の感覚を共有しているのではないでしょうか。


日本語を使いこなすことによって、対象を感じる視点が自分だけでなく共有領域にも移動することが起きているのではないでしょうか。

和歌の中における自然描写の中から自分を見たり対象を見たりする感覚は、自分の心情を詠っているにもかかわらずその視点は自分を離れて存在しています。

話しをしながらも意識をしなくとも、主語が省略される場面がたびたびあります。

共通領域から見た時には、自分も対象も同様に客観視できますので簡単に対象に同化することができます。

同化した視点から(共通領域から)自分を感じることもできます。


これらは視点と言うよりも、感覚を持つためのきっかけと言った方がいいかもしれません。

日本語には、自分を離れて共通領域に感覚が移るためのきっかけが含まれているのではないでしょうか。


そしてそれは、文字の導入される前から使われていた話し言葉である「古代やまとことば」に多く含まれていたのではないでしょうか。

もしかしたら「古代やまとことば」は、いま神や仏や天と言ってる領域のなかで自然とともに人が生きていくために分かり合うのに生まれた音なのではないでしょうか。

その言葉に後から導入された漢語から仮名と言う文字が発明されて、現代に伝わっているのではないでしょうか。

適切な表現がありませんが批判を恐れずに言えば、日本には「日本語教」とでも呼べる絶対的なものがあるのではないかと思えるくらいです。


この感覚は、日本語を母語とする人はほとんどの人が持っている感覚です。

日本人であっても、幼児期に他の言語を母語として身につけてしまった人にはない感覚です。

日本人でなくとも、母語として日本語を身につけた人には備わっている感覚です。

誰からも教わったものではありません。


無意識の感覚ですから説明のしようもありません。

意識できないものを教えることはできません。

したがって、後天的に身につけることはできない感覚だということができます。

それにもかかわらず、ほぼすべてに近い日本語の母語話者が持っているこの感覚は、幼児期に母親や家族から伝承される言語である母語に含まれるものとしか考えることができないのです。

母語は、学習言語である国語によってさらに磨かれていきますが、基本的な言語については幼児期の母語によって身についていることがわかっています。


日本語には、具体的な言語としての言葉や文字や文法以外にも、神や仏や天と言われる共通領域の感覚が含まれいるのではないでしょうか。

日本語を母語として持っている人は、言葉を聞いたり文字を見た時に言語野のある左脳だけでなく右脳までが活動していることがわかっています。

自然の音である風や虫の声や波の音を聞くときにも両方の脳が活動して、言語としても受け止めていることがわかっています。

他の言語話者では言語に対する反応は言語野のある側の脳(ほとんどの場合は左脳)がおもに活動しており、自然の音については雑音と同じで右脳が活発に反応しており反対の脳がほとんど活動していないことがわかっています。


日本語が正確さを身につけ始めたのは、幕末から明治維新にかけてです。

西欧の最新文明に早く追いつかないと植民地化政策を強め始めた西欧列強の草刈り場となってしまう危機感からでした。

産業革命を経験したヨーロッパの先端文明をあらゆる分野で、しかもものすごい速さで取り込んでいきました。

当然、新しい言葉がたくさん入ってきましたしたくさん作られました。

この時期に造られた新しい漢字や熟語を中心とした言葉は、広辞苑一冊に相当する20万語以上だと言われています。


この時期に、他の言語との共通感覚を持った言葉が大量に使われ始めることになります。

翻訳されて新しく作った言葉や、外来語などもそのまま使われるものも出てきました。

漢字の持っている造語力が大いに発揮され、その後は和製漢語として漢字の使用国に輸出されることにもなりました。

このあたりについては過去のブログも参考にしていただきたいと思います。
(参照:和製漢語の創出


一気に押し寄せた西洋文明に対して言葉として対応したのが、漢字でありカタカナでありアルファベットです。

それまでの日本語の感覚は、全く変わることなく「ひらがな」によって継承されていったのです。

「ひらがな」は「古代やまとことば」をそのまま受け継ぐ言葉です。


共有領域へのトランスレートのきっかけは話し言葉にあると思われます。

「古代やまとことば」が持っている音にあるのではないでしょうか。

漢字の音読みが少ない言葉で話しをされると共感や同化が起こりやすいのは、けっして「ひらがな」の言葉がわかりやすいからだけではないと思います。

「ひらがな」による話し言葉の音が、共有領域に移動する感覚のきっかけとなっているのではないでしょうか。


日本語の文字には、限りない正確さや人の心を表すことができる豊かな表現力があります。

日本語の話し言葉には、言葉以外の共感や対象を感じ取る感覚を持つことができるチカラがあります。

この共有領域のおかげで、かなりの日本人の不思議が説明できるのではないでしょうか。


この共有領域について、いい呼び方が見つからないものかと思っています。

共有領域という言葉そのものもあまりにも彼らの感覚的な表現ですので、日本語感覚での呼び方を見つけてみたいと思います。

案がありましたら、ぜひコメントいただきたいですね。

よろしくお願いします。






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