2014年8月6日水曜日

日本語の向こうにあるモノ(1)

日本語についてあれこれ考えていくとどうしても、日本人の精神文化に触れることが増えてきます。

確かに言語は文化を現すものではありますが、日本語ほど言語と人が密接に結びついている言語があるのでしょうか。

現代最先端の文明文化を担いでいる国の他の言語よりも、原住民の自然の中で生活をしている言語のほうと近い感覚を持ってしまうのはなぜでしょうか。


私自身は特定の宗教を信じているわけではありませんが、精神文化は宗教と密接な関係を持っています。

日本は政教分離・信教の自由を憲法で規定している国であり、特定の宗教を信仰している人の割合は極めて低い国です。

また、結婚式はキリスト教で、初詣は神道で、葬式は仏教でと宗教とのかかわりはかなり頻繁にあるものの、特定のこだわりもない世界的には極めてめずらしい国となっています。

その割には、チームワークや団体活動、他者との協力などにおいては無類のチカラを発揮する、これまた世界から見たら不思議な民族となっています。


日本人の無宗教性を示すものとして取り上げられるアンケートは以下のようなものです。

2003年10月に国学院大学が行なった世論調査。

「日本人の宗教意識・神観に関する世論調査」で、「あなたは何か、信仰とか信心とかをもっていますか」という問いに対して、以下のような回答となっています。
「持っている」が26.1%、「「持っていない」が70.9%。


2008年5月に読売新聞が行なった宗教観についてのアンケート。

「あなたは、何か宗教を信じていますか」という問いに対して、以下の回答となっています。
「信じている」が26.1%、「信じていない」が71.9%。


これだけですと、日本人が自分たちのことを見ているだけですので、世界はどう思っているのかに関係するデータを見つけてみました。

2008年にシカゴ大学のチームが行なった調査が論文として2012年に発表されたものの一部です。

調査対象43か国から30か国のデータを抜き出して掲載いますが、調査方法の詳細はわかりません。



細かくて見えませんので言葉で補います。

左側の列が「I don't believe in God.」に対してYesと答えた%です。

「私は神を信じません。」と言うことになるのでしょうが、ニュアンス的には具体的な信仰の対象としての「神」と言うよりも、神的なものは信じませんと言う程度のことではないかと思われます。

日本は8.7%となっています。


右側「I know God really exists and I have no doubts about it.」にYesと答えた%です。

現実としての神の存在を信じきっているかと言う問いかけとなっています。

順位の違いこそありますが、左側で「神を信じない」と言った国の1位から9位まではすべてが、右側の「神の存在を疑っていない」のワースト11位までに入っています。

左側の設問と右側の設問の間で最大のギャップを見せているのがJapanです。


「神を信じません」と言っているのは8.7%しかいないのに、「現実としての神の存在疑っていない」ではダントツの4.3%しかいないのです。

神と言う概念は信じているのですが実存としての神はないと思っているという、何とも西欧の思考では説明のつかない内容となっているのです。

それも、きわめて極端に表れていることになります。

言い方を変えると、神は感じるものであり目に見えて存在するものではないという感覚がほとんどすべての日本人に侵透していることになります。


西洋文明は物と物理学の文明ですので、信じる物には偶像化が必要になります。

その象徴が、十字架であったり聖書であったりすることになります。

彼らの信仰の対象は、キリスト教を代表として人になります。


日本の場合は、自分たちの生きている自然の中に神を感じることとなります。

自分たちの力や工夫の及ばない、自然現象に対して神のチカラを感じることになります。

神はあらゆるものに宿りチカラを発揮をすることになります。


時としては神が宿ったと思われる木や石や玉を象徴として祀ることはあっても、その物に神を感じているわけではありません。

西洋に比べると、神を感じている感覚はもっとずっと身近なものではないでしょうか。

身近どころか常に伴にあるものとしての感覚が方が強いのではないでしょうか。


これだけたくさんの表現の方法と規制の少ない文法を持っている日本語は、どんな表現をすることも可能です。

それにもかかわらず、「一を聞いて十を知る」「以心伝心」「目は口ほどにものを言う」などと言う精神文化が尊ばれるのはなぜでしょうか。

多言は嫌われます、自己主張の多さは嫌われます、他者の批判は嫌われます、言葉で説明することよりも感覚で理解することが尊ばれます。

一人称や二人称を表す言葉がこれだけたくさんあるのに、実際の会話で使われることがきわめて少ないのはなぜでしょうか。


どうやら、日本語には実際の言語としての日本語以外にも何かが含まれているのではないでしょうか。

それは、日本語を母語として使う人にとっては共通の当り前の感覚であるために、誰も意識したことがないのではないでしょうか。

図でイメージすると次のような感じです。


現実の言葉で表現しなくとも、日本語同士であればそこに言葉以外の共通の感覚が存在するのではないでしょうか。

比較のために他の言語をイメージしたものも図示してみます。


実際の伝達手段として言語しかないイメージです。

ですから、一生懸命に言語で説明をしなければいけません。

自他の違いを言語だけで確認しなければなりません。


日本語の場合は、他の言語と同じような観点で現実の言語として存在するもののほかに、ブルーの部分があるのではないでしょうか。

それによって、黄色の実際の言語によるやり取りが少なくて済んでいるのではないでしょうか。

このブルーの部分までを含めたものが日本語ではないでしょうか。

実際に目や耳にしている文字や言葉や文法は日本語の一部であり、それだけがお互いを理解するための手段ではないようです。


これを見つけた時に、今まで言われていた日本語の特徴について、ほとんどのことが論理的に説明がつくような気がしました。

最初に出てきた、神の存在の感じ方もこれで説明が付きます。

いくらでも正確な表現が可能な言語であるにもかかわらず、その表現をすることをすることを決して良しとしない感覚を持っていることなども説明が付きます。

日本人独特(日本語母語話者)のあの自然音や音楽に対しての脳の反応も、説明ができそうです。


次回は、このブルーの領域を何と呼ぶべきかを含めてもう少し検証してみたいと思います。





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