2014年8月31日日曜日

思考言語と表現言語

思考するときと表現するときでは、使用すべき言語が異なります。

このことを教えてくれる機会は、学校教育においてはないと思われます。

そもそも学校教育においては、思考するための言語の習得が精いっぱいで、表現するための言語を教える時間もメソッドもないのです。


私たちが学校教育で身につけられる言語は、文章を読んだりや話を聞いて理解するためのものであり、その能力を確認するための試験で問われることは、文字(漢字)や言葉の理解と文章の読解だけだからです。

物事を認知するための言語は、国語として義務教育で学びます。

その国語によって、必要な知識やルールを身につけていきます。

義務教育で身につけるのは、生きていくための必要な基本的な知識やルールであり、すべての人が同じ理解をしていないと困るものです。

そのためには同じ理解をするための共通言語が必要になります。

それが国語です。
(参照:国語教育の問題について

したがって、この段階での思考や表現も国語を基本に母語を加えたものでなされていることになります。

そのために、つたない表現技術であっても共通言語でなされている限りは、受け手側にとってもまだ理解しやすいものとなっています。

この段階で持っている言語が、基礎的な言語ばかりであることも理解を助けることとなっています。


ところが、社会に出ていくようになると、環境によって様々な言語や言葉と触れ合い、個人として持っている言語がどんどん多様性を持つようになってきます。

持っている言語の広がりや言葉の増加は、何かを認知するときや思考をするときには役に立ちます。

学校という閉鎖環境の中で、国語と言うすべての人に共通の言語を使うことで不自由がなかったことが、社会に出て今までと違った言語や同じ言葉でも使い方が異なるものに出会うことになります。

これらの言語を身につけなければ、その環境の中で生活できないために、無条件でそれらの言語を取り込んでいくことになります。


この言語は、国語のようにすべての人に共通した言語ではありません。

自分のいる環境の中での専用言語だということができます。

その環境の中では、それらの専用言語を中心とした認知活動や思考活動、表現活動をしていくことになります。


その環境の中だけにおいては、新たに身につけた専用言語も国語と同じように共通言語となっていると思われます。

しかし、社会で生活するということは、さまざまな環境で生活している人との接触を意味しています。

学校と言う狭い環境の中だけで、ほとんどの時間を過ごしていた時とは異なった、様々な環境で生活している様々な世代の人との接触をしなければなりません。

ほとんどの場合は、その人たちに何らかの商品やサービスを提供して対価を得るという経済活動にかかわることとなります。


必然的に他の環境で生活している人達とのコミュニケーションが必要となります。

コミュニケーションの初期目的は、理解してもらうことです。

理解してもらうためには、自分の持っている言語で伝えてもできません。

自分の言語で表現していることは、自己主張をしているだけであって、それをわかって理解してもらいことにはならないのです。


理解してもらうためには、相手の言語とその言語が持っている感覚によってわかってもらうことが大切になります。

つまりは、認知活動や思考活動で使っている自分の言語と違う言語が必要になってくるのです。

認知活動や思考活動は、個人活動です。

しかし、表現活動はそのほとんどが相手に理解してもらうことを目的として行っています。

更には、理解したうえで行動をしてもらうことを目的として行っているのです。


日本語は、世界の言語のなかで語彙数も多ければ表現方法もほぼ無限にあると言われているものです。

学校教育で身につく言語は、個人の持っている言語の中のほんの一部になってしまうのです。

したがって、個人の言語同士の差が他の言語における個人同士の差に比べると、格段に大きくなっているのです。


そのうえ、一つの言葉に対しての意味が広い言葉がたくさんあります。

一つの言葉で反対の意味を併せ持っている言葉すらあります。

同じ日本語ではありますが、相手に理解してもらおうと思う時は、自分の言語を離れて相手の言語による表現を心掛けないといけません。


認知活動や思考活動は、自分一人で行う活動であるために、自分が理解しやすい言語であればどんな言語で行っても全く問題になることはありません。

しかし、表現活動だけは、頭と同時に言語までも完全に切り替えなければならないのです。

相手の言語を知ることも大切ですし、その言語による感覚までもが知る必要があるのです。


日本語の大きな特徴に、まったく同じ表現をしても感覚によって受け取り方が違うことがあります。

その感覚は個人によって異なっているのですから、本当の理解を得たければ必ず理解したことの確認が必要になってくるのです。


日本語の中だけにおいてもこのようなことが必要になっているのです。

これが、世界とのコミュニケーションになったらどうでしょうか。

日本語は、世界の言語のなかで完全なる孤児であり、日本語で持っている感覚を含めた内容を理解してもらうことは大変難しいことになります。


欧米の言語は、国語としての習得はほとんど小学校の低学年で完了しています。

その後は表現のための言語技術を身につけるための学校教育となっています。

学校教育で身につけた言語や表現は、ほぼそのまま社会で通用するものとなっています。
(参照:外国の国語教育

専門用語が多少増える程度であり、基本的な理解においては、個人の持っている言語による意見や主張で理解できないことはありません。


彼らは、表現活動において相手に理解してもらうために相手の言語や感覚を考慮する必要がないのです。

自分の言語で、自分の思う主張をすれば相手が理解できるのです。

それだけ言語としては小さな言語であるということができるかもしれません。


日本語はどこの国際機関においても公用語とはなっていません。

つまりは、日本語を真剣に理解しようとする人はいないということになります。

日本のことを世界で理解してもらうには、とんでもない努力が必要となります。


彼らには、日本人の認知や思考の感覚がわかりません。

しかし、形のあるモノとしてなされた表現である芸術や製品については直接彼らの感覚で認知することができます。

したがって、形のあるモノに対しては彼らなりの評価ができることになります。

その評価が、ほとんど私たちが持っている評価と異なることはご存じのとおりです。


形になっていないものを、彼らに理解してもらうことはほとんど不可能だと思った方がいいと思います。

そこから、今回のような国連から日本が指導を受けるという「ヘイト・スピーチ」問題のようなわけのわからないことが起きてくるのです。

国連においての協議は、日本のことだけが一番わかりにくいこととなっているのです。

世界における日本のもので評価されている貢献は、目に見える形になっているモノだけです。


それ以外のものは、すべて彼らの言語で彼らの感覚に翻訳したものでない限り、日本語での感覚では絶対に伝わりません。

表現するときに使う言語は、理解してほしい相手の言語でなされなければなりません。

それは、相手がどんな言語であっても同じことです。


日本人同士であっても、日本語の特徴を考えると、相手の持っている言語は自分の言語とは違う外国語であるくらいの意識が必要となります。

ただし、共通の言語も多く持っていますので、共通言語によって確認することが可能となっています。

表現したら、どのように理解してもらっているかを確認したいですね。

共通言語である国語を使って。





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