2014年8月16日土曜日

日本語感覚の「個」について

もともとの日本語の感覚に「個」はどこまであったのでしょうか。

漢語が入ってきたころの中国では、きわめて強い「個」の感覚が存在していました。

「個」を生かすためには、かなりのことまでが行なわれており、結果として権力を使える立場になってさえしまえば、その過程はほとんどの場合は無きものになってしまいました。

ただし、そこにはより強い権力の前では、自らの「個」も同じように扱われることを意味しています。

権力を狙える立場にいるにもかかわらず、それをしないことは自ら生きる戦いを放棄した敗者としての扱いを受けます。


権力を振るえる立場になった者は、その立場を守ることと更なる権力を求めます。

留まることを知りません。

これが中国のパワーの源泉となっています。

人をだますことや嘘をつくことに対して、日本人の感覚ほど悪いこととは思っていません。

その場をしのげれば、いくらでもチャンスが来ると思っていますので、どんなことをしてもその場をしのぐことを考えます。

騙したり裏切ったりすることに対しては、ほとんど罪の意識がありません。

日本人が感覚としてどうしても相入れない部分が、ここになります。


これは、欧米の「個」との感覚とも異なるところとなっています。

欧米の「個」は他者との違いを優位として述べることを中心とした、自己主張にあります。

議論や論理として相手を批判し、自分の正しさを主張し説得するところにあります。


キリスト教の影響で、相手をだますことや嘘をつくことは罪であることを植え付けられていますので、優劣をつける方法が相手を批判する論理の正当化によることになります。

そのためには話さなければなりません。

相手も話しますので、それを論破して自己の正統性を説得しなければいけません。


絶対的な事実となる物理学的な現象や絶対的な法則を土台とした、説得するための論理の展開の技術が磨かれていきます。

人の感情や行動までもが、論理的に説明されて、説得するための根拠として利用されていきます。

新しい技術や発見は、相手に勝る説得の方法としてどんどん開発されていくことになります。


新しい技術や発見は、個人の論理として説得できたときにその評価を受けます。

個人の自己主張が基本となっていますので、その評価は「個」に帰すことになります。

評価にしても優劣にしても、その対象は「個」となります。

自己主張のできないものは、評価の場に身を置くことができない敗者としての扱いを受けます。


日本人の感覚として「個」の優劣や能力として一番厳しい評価はどんなことでしょうか。

さまざまな面からの検討がされてきましたが、どうやら「知らない」と言うことが一番の敗者のようです。

「こんなことも知らないのか。」は最大の侮辱表現となっているのではないでしょうか。

ですから、共通事として周りが認識していることに対して、自分が知らなかったりすると、半端ではない劣等感や出遅れ感を持つことになります。


アウトプットの苦手な日本人は、自己主張が苦手であり自分のことを多く語ろうとはしません。

そんな環境の中では、わずかなアウトプットの中からすべてを探ろうとすることが行なわれます。

そのわずかなアウトプットの機会に、共有できなかったりわからなかったりすると、そのことだけで基準に達していないと判断されてしまうことになります。


わずかなアウトプットの機会でも、きっちりと対応できるように、あらゆる知識のインプットが尊重されるようになります。

何かができることよりも、あらゆる知識を持っている事の方が評価されるようになります。

見た目や表現されていることだけでは、「個」の評価ができないことになります。


正しい判断をするためには、瞬間の発言よりも、その人自身を知ることが求められます。

そのために、先祖や親や家族の環境までもを知ろうとします。

どこかに共通性を見つけて、相手を知ろうとするのです。

したがって、表現しなくとも何ができる人であるかをわかるために、資格がたくさんできたり、ランクが付いたり、細かい部署名や役職名が付いたりすることになります。


日本人の感覚では「個」が意識される場面は決して多くはありません。

その典型は、個人名で呼ばれることよりも役職名で呼ばれることの方が多いからではないでしょうか。


いつの間にか日本人は個人の名前で呼ぶことよりも、職業や役職名で呼ぶことの方が自然になっています。

もともと個人の識別としての名前は、たいして重要ではなかったのかもしれません。

「誰」であるかよりも「何をする人」であるかと言う、機能で人を見ているために「個」という感覚を持ちにくくなっています。

それは個人を知ることよりも、企業や職業や部門や役職を知ったほうが、その人をよく表しているからではないでしょうか。

つまり、同じ職業の同じ部門の同じ役職の同じ等級の人は、「個」としても同じであると見ていることになります。


日本語による知的活動の効果は世界のいろいろな分野で認められています。

しかし、その効果を生かすためには、アウトプットして他者の目や批判によって磨かれなければいけません。

日本人の優秀な学者が、国内にいたのではその活動の評価が認められにくいのも、日本語の感覚によるものではないでしょうか。


しかし、同じ人がひとたび海外で大きな評価を受けてくると、途端に扱いが変わってしまいます。

それは日本人が持っている「個」を見る目が問題を含んでいるのではないでしょうか。

そのためには、「個」としてのアウトプットをもっとたくさんしていかなければいけません。

個のアウトプットに対しての評価を、純粋にできるようにならなければなりません。

師匠や帰属団体や過去の実績に関係なく、純粋にアウトプットを評価できる環境が求められています。

「個」としての批判に対してもっと鈍感になっていかなければいけません。


決して多くを語れと言っているではありません。

自ら意見を発することを決して良しとしないこと、人がどう思っているかを必要以上に気にしすぎることは日本人の特徴となっています。

しかし、日本語の特徴や日本の精神文化は決してそうではないと思われます。

発し方が問題なのではないでしょうか。

直接的な自己主張が嫌われるだけですので、日本語感覚の相手の意見を推し量った表現にすればいいだけのことです。

人がどう思っているかは、一方的な自己主張がもたらす不安ですので、伝える相手を最大限尊重して表現すればいいだけのことです。


他の国と直接触れるのは言語の場面です。

どちらの言語で交渉するかは、その時点でアドバンテージがあります。

日本語は、ほとんどの場合交渉言語になることはありません。

彼らは決裁者としての「個」と交渉します。

日本語でも「個」を磨いておく必要があります。


現代社会での日本感覚を一番「あいまい」にしているのが「個」の感覚ではないでしょうか。

日本語の中での「個」を磨いていけると、すごいものになりそうですね。





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