2014年7月27日日曜日

休日の独り言

昨日で、このブログの累計PV(ページビュー)が60,000を越えました。

書き始めたのが2013年4月19日ですので、15ヶ月と7日、462投稿が記録されています。

多いのか少ないのかはよくわかりませんが、20%程度は繰り返し読んでいただいる方のようです。

コメントも時々いただけるようになって、いい加減なことが書けない緊張感と同時にモチベーションにもつながっていて、ありがたいことだと思います。


書き始めのころは、自分の専門である物流についてのことをアレコレ書いていました。

休日についてののみ、日本語について書いていたのですが、専門の方のネタが意外と早くに尽きてしまいました。

その頃のブログで、今もPVの衰えないのが「才数と重量」です。

特に「才数」については物流分野の人しかわからない言葉(単位)かもしれないですね。

4月、5月にこの投稿のPVが増えるのは、新人さんたちが研修などで出会った言葉で検索しているのかもしれないですね。
(参照:才数と重量


この「才数と重量」のブログを書いたのが2013年5月1日ですので、サクッと書いてしまったことを覚えています。

今から思うと、かなり短めの用語集に毛の生えた程度のものになっていたと思います。

「才」だけでは短すぎるので、「石」(コク)にも触れていました。


このブログが、日本語へ思い切り舵を切ったきっかけになるとは思っていませんでした。

「才」も「数」も普段よく使っている言葉なのに、「才数」となると一部の人にしかわからない専門用語になってしまうのです。

しかも、一文字ずつはよく使っているものなのですが、熟語になると何のことだかさっぱりわからない言葉になってしまっているのです。


人の知らない専門用語を知っていることが、なんとなく誇らしく、専門家になったような気になってしまうことにつながることが分かったころです。

文章は丁寧なのですが、「知らないだろう、教えてやる。」というニュアンスが読み取れるのが面白いですね。

途中で文章を修正しようかとも思いましたが、その時は明らかな誤字脱字だけの修正にとどめました。

そのおかけで、書いた時のニュアンスを今でも思い出すことができます。


そのころ考えていたことが、専門家と専門用語についてでした。

専門家とは、一般の人に比べて特定の分野の言葉をたくさん持っている人だということが、おぼろげながら見えてきたころだったと思います。

本当の専門家になると、専門用語をあまり使用せずに一般にもわかりやすい表現をしてくれます。

本物の専門家は、その分野だけにとどまらず活動の範囲が他分野にも広がっていきます。

達者、名人、覚者とイメージが重なったころでした。


どんな分野においても、専門的に秀でた技術を持った人が出てきます。

達者と言われる段階ではないでしょうか。

やがて、その分野で並ぶ人がない力を発揮するようになると、名人と言われるようにもなります。

ところが、ある分野を極めたり技術を越えたところの存在になると、不変の真理を感じることができるようです。

どの分野から極めていっても至ることができる、人としての究極の生き方の姿が覚者ではないでしょうか。


本当の専門家が、専門用語から離れていくことが見えてきました。

捨てていくのではなく、専門用語を本当に理解して、一般的な表現で理解できるようにしているのです。

専門用語をそのまま覚えることよりも、はるかに難しいことです。

専門用語をちらつかせているようでは、本物の専門家に成れていないことを自ら証明しているようなものなのです。


平易なわかりやすい言葉ほど奥が深いことがわかってきました。

わかりやすい言葉のほとんどが「ひらがな言葉」であることがわかっています。

「やまとことば」から来ている言葉であることがほとんどです。


「やまとことば」が磨かれてきた土壌は、和歌にあります。

短い句の中に、わかりやすい言葉を使いながら、様々な意味や感情を込める技術を極めてきた表現方法です。

わかりやすい言葉ほど、使う人や受け取る人によってさまざまな理解ができるのが日本語です。


それを補って正確さを求めようとすると、専門用語や製品番号などが飛び交うことになります。

和歌を理解するためには、詠み人がその歌を詠んだ時の環境を理解しないとできません。

感情移入とは異なる、同一化が必要になります。

しかも、和歌の技術は二重描写の技術が至るところに使われているために、同化しつつもその自分をも客観視する視点を保持する必要があるのです。


ブログのテーマを「日本語のチカラ」に舵を切った時には、勢いと興味だけで走っていました。

専門性があり、自分では達者だと思っていた物流分野でのネタがこうも早く尽きるとは思っていませんでした。

ほかの言葉でも言い換えられることがよくありますね。


「術」と「道」がそうですね。

剣術、柔術、芸術、これらが極められていくと、剣道、柔道、芸の道、となっていくわけですね。

「術」は伝えることも盗むこともできますが、「道」は切り拓くことしかできません。

先達の道をたどりながら「術」を身につけて、新たなる「道」を拓いていくことの繰り返しですね。

中途半端な「術」では、「道」は拓けませんね。


「形無し」と「型破り」も同じことでしょうね。

「術」としての形が身についていないのが、「形無し」ですね。見るに堪えないものになっているのでしょう。

形が身について自分の物になってきたときにできることが、過去の形を越えた「型破り」になるのでしょうね。
(参照:「型破り」と「形無し」


道を究めた人ほど、型を破った人ほど、人としての不変の真理に近づいていくのではないでしょうか。

身近にこういう人を感じることができる環境にいることは、とても恵まれたことです。

どんな「術」や「道」からも行きつくところは同じになるようですね。


人としての達者、名人になることは究極の専門分野ではないでしょうか。

これを専門分野と見るかどうかだけのことですね。

私のように、いろいろな分野をフラフラしていることは、人間という専門分野を究めようとしているんだと思い込むようにしています。

どの道を歩もうとも、行く先は同じことのようです。

どんな分野を選ぼうとも、自信を持って歩んで行きたいですね。

いずれ同じところで、お目にかかれるように・・・




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