しかし、世界のどの言語に比べても正確な表現ができる言語であることも真実なのです。
物理の現象を表現した内容を翻訳された日本語表現は、原著者が自国語で行なうよりもはるかに正確な表現になっていたこともあるようです。
それだけ正確な表現が可能であるも日本語なのに、普段の表現においてはそれほど正確さを意識することはありません。
これはなぜなのでしょうか。
他の先進国の言語では、論理的にも表現的にも明確なものが多く、日本語表現に比べるととても秩序だっているように思われます。
日本語においては、意識して表現すればさらに正確で秩序だったものが可能であるにもかかわらず、実際の場面ではほとんどお目にかかることがないのはどうしてなのでしょうか。
もちろん、翻訳する人の能力や専門性の深さによることもありますが、一種の学術的な翻訳にしかその能力が生かされていないことはとてももったいないことだと思っていました。
どうやら日本人は、感覚としてきちんと秩序立ってることがあまり好きではないようです。
混沌とまではいきませんが、きちっと整っていることに対して、あまりにも隙がなくきちんと整っていることはかえって気持ちが落ち着かない感覚を持つようです。
日本人の好きな言葉に「逆」という言葉があります。
「反対」という言葉は、嫌いな言葉に属しているようですが、「逆」は好きな言葉の方になっているようです。
この感覚は、世界の他の言語の感覚にはないようです。
「反対」という感覚は常にどこかで持っているようですが、「逆」の感覚はよくわからないのか、話をしていてもイメージがしにくいようです。
こちらも説明するのに苦労した割には、ほとんど理解されないことの一つになっています。
私の付き合ってきた英語話者たちの感覚では、「反対」の典型は「YES NO」の「NO」になります。
何とか「逆」という感覚を伝えようとしましたが、一番近いと思われるもので、「opposite」や「upside down」「inside out」になるのではないかと思います。
状況によっては「reverse」でもありかもしれません。
「逆」というイメージには、本来の正しい順番やあり方があって、それをひっくり返したものという感覚が強いようです。
彼らの「逆」というイメージは、本来の秩序に対しての「逆らった」ものとして良くないこと(悪)のイメージが含まれているようです。
むしろ「反対」の方が自分の意思の表現として、良い悪いの感覚を伴うことなく極めて抵抗なく自然に使えるもののようです。
自分の意にそぐわなければ、まず「NO」を表現することが当たり前になっているからなのでしょう。
ほとんど何の抵抗もなく「NO」が発せられます。
私たちの感覚としては「反対」はかなり強い否定のイメージが伴ってしまいます。
そのためになかなか「反対」をはっきり口にすることができなくなっています。
これは文化歴史的な背景もあると思います。
白黒、敵味方、などのはっきりした秩序よりも、むしろその中庸にありながら常にどちらとも言えず触れていることの方が、より自然なあり方だと気が付いているのではないでしょうか。
感覚として、明確な秩序よりも状況や判断によって変化する、必ず明確にどちらかに決めることができない感覚というのが自然に身についているのではないでしょうか。
今は、状況から判断して「YES」を選んだとしても、そこには少なからぬ「NO」もあることがわかっており、聞く耳は常に持っているということがあるのではないでしょうか。
「逆」が存在するためには「順」がなければなりません。
ただしこの「順」は「正」とは限りません。
誰かが何かの基準で作った「順」です。
その「順」に対して「逆らった」ものが「逆」です。
そこでは初めの「順」の基準に対しての、異なった見方として基準を示しているのではないでしょうか。
「お上に逆らう」という言葉があります。
「お上」はある種絶対の権力であり現実の為政者です。
それに逆らうと言うことは、それが「お上」という「順」を決めている基準に対して、新しい異なった基準を提示していることに他ならないと思われます。
「逆の視点から見てみましょう」と言う場合の「逆」は元の基準と比較したときに、正も悪もありません。
まったく対等の並立した基準としての新しい観点を提案していることになります。
明確な秩序を嫌い、常に中庸で揺れ動く状況を受け入れ、異なる基準からの検証を意識するのが日本語を母語として持っている特徴ではないでしょうか。
何と素晴らしい感覚ではないでしょうか。
目標を一つ決めて、ひたすら脇目も振らずに突き進むことは、私たちにはとても難しいことなのです。
一度決めたことを最後までやり通すことは、私たちにはとても難しいことなのです。
欧米流の論理やメソッドが、理屈的には理解できても、運用面で日本に定着しないことの大きな理由がここにあるのではないでしょうか。
何かを多数決で決めて、それを決まり事としてひたすら行動することは、私たちには難しいことなのです。
感覚的に何かが抵抗してしまうことなのです。
決めたことに対してすべての行動の焦点を合わせて、あらゆる階層で同じ方向へ向けていくのが欧米流だとしたら、日本流はそれぞれがあらゆる方向でコツコツ積み上げた行動の中から、その時の状況において一番ふさわしいと思われるものを選択していくことではないでしょうか。
言語は、文化歴史が反映されたものです。
言語の特徴は、その言語を使う人において現れます。
日本語はとても大きな言語で、さまざまな特徴を持っているために、人によって出てくる特徴もざまざまです。
言語が違えば、考え方も違うし、結論も違うのが当たり前です。
もっともっと、日本語から見える日本人像がたくさんあると思います。
自分たちが、違いを意識できるといいですね。
そこでこそ、日本人としての存在感が出てくるのでしょうね。
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