2014年7月19日土曜日

「一緒に考えること」と「教わること」

私たち日本人の感覚の中には、同じ立場で対等に何かをするというとこが落ち着かない環境となっているようです。

複数の人間が集まれば、自然と役割ができますし、命令系統・上下関係ができるようになっているようです。

相手との関係が見えていないときに何とか対応しなければならなくなった時の不安は、不気味なほどに大きなものとなっています。


どんな基準でもいいのですが、相手との間に上下・優劣・強弱・大小などの関係においてのポジションを定めようとします。

そのポジションが定まらないと、個人的な相手との関係において対応の仕方がわからないのです。


これは、日本語が数多く持っている敬語にも関係があることだと思われます。

尊敬語、謙譲語、丁寧語など同じ敬語であっても、場面や相手との関係において使い分けをすべきものがたくさんあります。

敬語をきちんと使い分けできることは、日本人としての身についている礼儀のレベルの高さにつながるものとなっています。


個人の持っている能力や影響力とは全く別に、必然的に上下を決めてしまう基準がたくさん存在しています。

属している組織の規模や影響度、その組織におけるポジションや役割、社会一般における認知度、社会的な身分や知名度、親の地位や知名度など個人対個人においては関係のない基準までを持ち出して、何とか上下の関係を安定させようとします。

その基準は個人として身につけたり持っていたりすることよりも、世間的な一般評価や知名度によって左右されていることの方が多いと思われます。

この、一般的な関係において対応することが、標準的な対応であると思われていることも多いことです。

この関係が安定したものでないと、とても居心地の悪いことと感じるようです。


その関係を見つけた瞬間から、自分は上下どちらの立場をとればいいのかがはっきりするのです。

明確な上下が見つからなくともいいのです、小さな上下であってもそれを見つけたことによって、その相手に対して振る舞う自分の立ち位置が決まって安心できるのです。

傍から見て、この関係が逆になった言葉や態度を見ることになると、とても気になってしまい、礼を失したヤツだと思われてしまうことになります。


基本的に、対等の立場でお互いの意見を尊重し合いながら何かを結論付けるという活動に慣れていないのです。

意見を提案としてあげることは、相手に判断を委ねることになります。

上下にの関係には「教わる」ことが多くなりますので、業務命令としてほとんどのことを受けながら、たまに意見を具申するというスタンスになります。

日本人全体では、一部の業務命令をすることはあっても、最終的に業務命令を受ける立場の人がほとんどですので、このポジションの安定感は抜群です。


ほとんどの人が「教わる」立場のポジションにどっぷりとつかっていることになります。

考えて結論を出して責任を持って実施して修正してという行為を人と一緒に対等にできるポジションにいないのです。

「一緒に考える」という本当の対等なポジションでの活動に慣れていないのです。


面識の浅い場合には特にそうです。

年齢でも、住まいでも何でもいいから上下の関係を付けてからでないと、全くの対等の関係は居心地が悪いのです。

お互いがわかってくるにつれて見えてくる、様々な上下の関係に対して失礼があることを恐れるのです。


これらは生きてきた間に自然に身についていることだと思われます。

「それはいい質問ですね。」はすっかり池上彰さんで有名になってしまいましたが、完全な上から目線ですね。

質問をしている方が下の立場であることは明らかです。


20年以上前になると思いますが、英語の研修に行っているときに各部屋にアメリカのアイビーリーグを卒業したてのアシスタントが付いていました。

もちろん彼は日本語はできませんし、我々より10歳以上年下でした。

彼はよく「That's a good question.」を使っていました。


最初は不思議に感じたものでした。

日本語にすると、「それは、いい質問です。」となって完全に上から目線に思えてしまいます。

社会人生活も専門性も私たちよりもずっと経験の少ない彼が、なぜこういう言い方をするのか不思議でした。


そしてその言葉の後に、こちらとしては当然それに対しての答えが出てくると思っていましたから、よけいに「?」となってしまいました。

やがて彼の意図がわかってきました。

日本語にした場合のニュアンスとしては、「それはいい指摘のポイントです、一緒に考えてみましょう。」的なものだとわかってきたのです。


私たちは「question」には「answer」があるものだと思い込んでいましたが、そうではないのですね。

「good question」には自分にも気が付かなかった、いい指摘が含まれているというある種の尊敬の念が含まれた言葉だったのです。

自分に答えがなくともいいんです。


日本人の場合は、答えの出せない質問に対しては、誤魔化したり逃げたり回避したりしてしまいがちです。

質面を受けるという行為そのものが、上から目線的な行為になりますので、出てきた質問に対しての回答ができないと、上の立場が揺らいでしまうと思うからそのようになってしまうのです。

同じ立場だと思っていたら、どんな質問がでてきたとしても回答できるものはすればいいのですし、予定外であれば「good question」として一緒に考えてみましょうとすればいいだけのことです。

日本語の場合ですと質問をしている方自体に、その環境において下としての「教わる」スタンスがありますので、答えられないことで上の立場を批判したりしるものの、一緒に考えるという発想自体になりません。


日本人が染みついて持っている、上下を何とか作って対処する行為を簡単には変えることはできないと思います。

しかし「一緒に考える」というスタンスは、それぞれの経験や知識をバックにした、個人の対等な行為として割と簡単にできるのではないでしょうか。

会社での戦略会議よりも、社外での身分の見えないワークショップの方がうまく機能するのは当たり前のことなのです。

研修だからとか、筋書きがあるからだとかではないのです。


会社という環境がすでに明確な階級環境で上下が定められたものです。

決まっているから、自分の立ち位置がわかるので安心してそのポジションを演じていればいいのです。

「無礼講」や「役職立場関係なく」は会社でやっている限り、単なるお題目でしかないのです。


「教わる」ことに慣れすぎてしまった私たちは、「一緒に考える」ことができる仲間を確保することが大切です。

一歩間違うと、その中での自分の立場が上になっていることで周りが全部下ばかりであること気が付くこともあるでしょう。

陥りやすいことのひとつです。


自分よりの上と思える人たちに対して「一緒に考える」行為ができるようになるといいですね。

必要以上にへりくだる必要もなければ、世間的な上下の関係も何の役にも立たないことを感じている人はたくさんいます。

「一緒に考える」ことに慣れていきたいですね。




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