(参照:「国語」ってなに?)
義務教育における国語の学習は、それから先の知識を身につけるために必要な学習言語の役割として、とても重要なポジションにあります。
すべての教科の教科書が国語の学習進度に合わせて表現されていきますので、国語学習の遅れはすべての教科に影響を及ぼすことになります。
また、国語として規定されている言語は、日常使用言語とも微妙に違っていることもあり、学習としてしっかり国語を習得する必要があります。
日本の国語教育が他の国の国語教育と大きく異なるのが、学習期間です。
義務教育の9年間を完了しても、よほど自分で数多くの読書をこなしていないと、学校教育だけでは新聞を読むのにも苦労するレベルの国語習得となっています。
義務教育においては、人として生きていくための基本的なルールや知識を身につけることが中心になります。
そのためには、同じ理解をするための共通語が必要になります。
それが国語になります。
また、国語はすべてのことを学んでいくための言語になりますので、学習言語とも呼ばれています。
幼児期までの言語は、家族や世話をしてくれる人に意志を伝えれることができればいい程度の、きわめて個人的な言語でした。
そのほとんどは母親を中心とした家族から伝承された言語です。
しかし幼児期に習得した「母語」には知的活動のための機能開発という大きな役割がありましたが、より大きな社会でのルールや知識を身につけるための共通語としての役割はありませんでした。
(参照:「母語」と「国語」の関係)
幼児期言語から国語に習得の中心が移っていきながら、知的活動の内容にも発達が見られるようになります。
一つは記憶を保持できる期間がどんどん長くなっていくことです。
小学校入学のころには、一週間程度だった記憶の保持期間が、小学校の四年生頃になると大人とほとんど変わらない二週間程度にまで伸びてきます。
記憶の内容についても「誰と、いつ、どこで」を伴った記憶(これをエピソード記憶と呼びます)を保持できるようになり、より鮮明な記憶として残せるようになります。
それに伴って、身につけた知識を使って少しずつ思考することができるようになります。
それをアウトプットすることによって間違いを修正してもらいながら正しいルールや知識を身につけていきます。
国語の一番の基礎言語は「ひらがな」です。
しかし、「ひらがなの」の習得である読み書きについては、小学校一年生の2ヶ月に満たない期間で完了してしまいます。
述べの学習時間は24時間程度しかありません。
学習言語、共通語としての国語のなかで誰でもが理解できる一番確実な言語が「ひらがな」なのです。
日本語は方言や業界用語・専門用語などを入れると、とんでもなく大きい言語です。
それでも社会で生きていくためには、共通のルールや知識が必要になります。
共通のルールや知識を正確に理解し合うには、意味を限定した共通語が必要になります。
その役割を国語が担っているのです。
日本語は本来は、ほとんど文法的な縛りのないとても自由な言語です。
しかし、それでは意味の取り間違えや修飾・被修飾の関係がわからなくなってしまうために、表現するときのルールとしての文法を定めます。
これを厳格に定めたものが国語の文法です。
言葉の意味にしても、一つの言葉にいろいろな意味を持たせるのが日本語の特徴でもありますが、国語として使用する言葉はその意味をできるだけ限定的として間違えを少なくしようするものです。
したがって、日本語としては正しいとか正しくないとかいう判断をすることができるものではないのですが、国語としての言葉の意味や使い方としては正しいとか正しくないということが起きてきます。
正しい日本語というのは存在しませんし、日本で使われている言語のすべてが日本語です。
しかし、国語として正しいか正しくないかの判断はできることになります。
すべての日本人が義務教育において、国語を身につけていきます。
この国語が日本語の中の共通語なのです。
標準語とは少し意味合いが異なります。
標準語とは、主に軍隊のなかで指示命令が間違って伝わらないように、一つの意味だけを持たせて使用された言葉のことです。
警察における標準語は広島弁が多く採用されたこともあります。
今も名残りが残っている言葉がたくさんありますね。
共通語である国語は、日本語での表現をする以上は、誰もが同じ理解ができるように規定された言語なのです。
言葉は常に変化していきますので、国語として規定していた意味が現実社会では違った意味で使われることも出てきます。
また、新しい言葉も生まれてきます。
そのために、定期的に国語としての言葉の意味や使用方法は修正をしながら、共通語としての役割を担っているのです。
一般用語としては「見れる」でも何の問題もないのですが、国語としては「見られる」でなければいけないとなるのです。
そのために人に理解してもらおうと思う時は、国語を意識する必要があるのです。
社会に出てしまうと、言語に携わる人以外はほとんど国語を意識することがなくなります。
専門的な言葉や業界特有の言葉や言い回しなどに寝れ親しんで使用するようになっていきます。
これが環境言語といわれる、国語の習得の後に身につけていく後天的な言語になります。
国語がメインの生活の場合は、意識せずとも国語での表現ができますが、社会に出てしまうとそれぞれの環境でかなり言葉や表現が変わってきます。
環境の違う人に説明したり理解を求める時には、自分の普段使っている言葉を見直す必要があります。
国語で表現することが理解を得るための方法となります。
さらに一番わかりすくするためには、国語の中の一番基礎言語である「ひらがな」の表現をうまく使うことです。
自分の専門性を自慢したいだけであれば、そんな必要はありませんが、いまどきそんな自慢をしたところで何の役にも立たないことはみんながわかっていることだと思います。
学会での発表においても、わかりやすさは評価の重点ポイントになっています。
凝り固まった排他的な学会ほど、わかりやすさが軽視されているのは面白いことだなと思っています。
自分が普段生活している環境に慣れてしまうと、相手に理解してもらうための表現がどんどん下手になっていきます。
小学生の低学年に説明するような表現が一番わかりやすい表現になるのですね。
もう一度小学校の国語の教科書をしっかり読んでみましょうか。
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