2014年7月1日火曜日

相手と同化しやすい日本語

日本人はもともと自分自身を主語にしっかりおいて、話したり書いたりするのが苦手にできています。

個人としての「私」が意識され始めたのは、明治以降のヨーロッパの民主主義文化が導入されてからになります。

歌謡曲においても一人称が最初に使われたと思われるのが、「おれは川原の枯れすすき」(船頭小唄)が登場する大正12年まで待たなければなりません。

明らかに一人称「私」を歌っているいる曲は、それ以前にも沢山ありましたが、言葉としてのはっきりとした一人称が登場することはありませんでした。


日本語を磨き上げるための舞台となった和歌においても、一人称を中心に見てみるとほとんど見当たらないことがわかります。

歌の内容としては、明らかに自分の心情を歌っているのですが、そこで一人称が出てくることはほとんどありません。

三十一文字という限られた表現形式の中においては、徹底的に簡素化され無駄を省いてきた中で表現力が磨かれてきたと考えられます。


明らかに自分の心情を歌っているものにおいては、花鳥風月の自然にその心情を映して詠いこんでおり、同じ月であってもその見え方の表現によって心情の違いを表しています。

結果として、心情を表す形容詞を直接使うことなく、自然描写の違いによって自分の心情を推測させるという能力を、読者に求めることとなります。

その例えや描写を巧みとして評価することによって、直接的な表現は巧みさに欠けるとしてますます避けられるようになっていきます。

その感性は、現代の私たちの中にも受け継がれており、露骨な自己主張については、いかに正論であろうとも気持ちよく受け入れることができないということが起こります。

和歌の中では、自分からという意味になる「われから」についても、わざわざ海の藻に付着する小さな生物である「われから」を引用して、掛詞として使用していたりします。


海人の刈る 藻に住む虫の われからと 音をこそ泣かめ 世をば恨みじ(古今集)
(あまのかる もにすむむしの われからと ねをこそなかめ よをばうらみじ)

意味としては、海人が刈る藻に住む虫にわれからと(いう虫がいるが、私の不幸は)自分から(招いたのだ)声をあげて泣きこそしようが、世間を恨んだりするつもりはない、というものです。


これが「私」という主語を伴った時にも感覚として影響してくるものだと思われます。

「私」を明確にすればするほどエンディングの言葉が、「・・・と思います。」や「・・・と考えます。」となりがちになります。

「絶対」や「必ず」を伴った文であっても、「私」が加わると途端に語尾の表現が弱くなってきてしまいます。


そのおかげで、花鳥風月の自然の描写においては、どこかに表現者の心情が隠れていないかという見方・読み方が意識せずともおこなわれていることになります。

明らかに一人称のことを表現していることは、感覚としてすぐわかりますので、その表現の中から心情を推し量ろうとします。

その行為は、読み手にとっては当たり前であり、感覚として継承してきているものであると言えるでしょう。

直接的な感情表現よりも、より自然に読み手の心情に迫ることができるものとなっているのです。


同じ寂しさと言っても、月が雲間から顔を出さない様子を表現することによって、寂しさとして共感することができるのです。

時としては、単に雲の多い月を描写するだけで寂しさを感じさせることも可能となるわけです。

その環境を第三者的に頭に描くことではなく、自分も同じようにその環境に身を置くことによって、詠み手と同化することができるようになります。

より巧みに同化する環境を表現することが、和歌の表現技術を磨いてきたことではないでしょうか。


日本人の感覚として、「私」があまりに前に出てくると、どんなに良いことを言われても思わず引いてしまいます。

反対に、巧みな描写表現でたとえ話として伝えられると、思わず前のめりになっていくようです。

主語が頻繁に省略されることは、このような感覚から来るものかもしれませんね。


このような表現技術は、時としては「わかりにくさ」につながる場合もあります。

現代のように短時間で何でも効率化が優先されてくると、一言ずつが示す内容の明確さが求められてきます。

複数の意味を持つことが敬遠されるようになってきます。


日本語は特に同音異義語が多い言語ですので、口頭による伝達よりも文書による伝達を重んじるようになります。

また、一つの言葉に対して一つの意味を一対一で定義したものが好まれるようになります。

同じ言葉を発したときの誤解をなくすためですね。

これの典型が軍隊用語です。

命令に対してそれぞれが違った行動をされてはたまりませんし、上から下まで同じ言葉については同じ解釈をしないと軍隊になりません。

戦後、ビジネスの世界で盛んに軍事用語がつかわれるようになったのは、言葉と意味が一対一になっている正確さが求められたからです。


軍隊は心情描写や相手の気持ちを知ることとは対極にある環境です。

日本人は「やまとことば」を継承していく限り、戦争とはきわめて遠くにあるものだということができるでしょう。


一方では、言葉による表現を芸術の領域にまで高めた技術を持ちながらも、また他方では何よりも正確に表現する技術を持ち合わせている日本語は、使い方ひとつでどのような性格をも持つことができるのではないでしょうか。

和歌で培ってきた芸術とまで言い切れる表現技術と、海外の文化を取り込んで数十万という言葉を生み出した具体的な表現技術は、今現在も変化し続けています。

特に若い人たちは新しい言葉を生み出すことにおいては天才的なものがあります。

願わくば、その根底に家族から伝承された日本語がしっかりと根付いていてほしいものだと思います。


一通りの基礎言語を学んだ小学校の高学年からいじめが顕在化してきます。

道具としての言語が使えるようになってくる時期と重なっているのは、偶然ではないと思います。

日本語の持つ本来の感覚である、相手の言葉の向こう側にあるものを推し量る能力がしっかりと継承されていなのではないかと思っています。

また、それを教える能力も低下してきているのではないでしょうか。

もともと、自分自身のことを表現することが苦手な言語において、表面的な言葉を追いかけたら相手を理解することはとてつもなく難しいことになります。

個人の性格によるところもあると思いますが、言語そのものが持つ性格も決してないとは言い切れないのではないでしょうか。


まだまだ、気がつかなかった日本語の特徴は出てくると思います。

気づかなかった日本語の特徴以降もいろいろなことが見つかっています。
(参照:気づかなかった日本語の特徴(1)~(6)

なんと奥深い言語なんでしょうか。

ますますのめり込んでしまいそうですね。




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