2014年6月5日木曜日

知的活動と言語について(7)

先回は、伝承言語である「母語」から学習言語である「国語」への習得の移行についてみてみました。

「国語」を身につけるためには「母語」によるサポートが必要なこともわかりました。

特に「国語」習得の初期段階では、「母語」によって「国語」を理解しているために、ひらがなについてはそのほとんどが「母語」によって習得されていることになります。

「あ」を「あ」と読み発音することは「母語」によって理解されて記憶されることになります。



「母語」には文字の要素がありません、音声言葉だけで構成されており、主に母親(役)から伝承されて身についたその言葉についての言語感覚から成り立っていると思われます。


今回は頻繁に出てくる言語感覚についてみてみたいと思います。

言語習得の初めの段階は、身近にある物を認知する言葉(名詞)から始まります。

もちろん母親(役)の人が使っている言葉の真似から始まりますが、発音がしっかりできなかったり単音しか言えなかったりする段階では、言葉として聞こえるまでにはいたりません。

わずかな音を頼りに、言葉以外の感覚でおこなう母親(役)とのやり取りが言語感覚を身につけていく基本となります。


子どもは言葉を発することができていない段階でも、母親(役)の語りかけている内容はかなりの部分を理解していることがわかっています。

言葉を補うための子どもの指差しの動作は、幼児期における大切な行動として、一歳半の定期検診時には必ず確認がされています。

言葉以外での感覚でも「認知活動」を行なっていることがわかっています。

この感覚が言葉と結びついて言語感覚となっていくのではないでしょうか。


物を認知する言葉としての初めは、具体的に身近にある母親(役)が頻繁に子どもと共有する物の名詞になります。

子どもにとってもその対象物の具体的な呼び名と言うことになりますので、固有名詞と変わらない対象物=名前として音だけで認知することができるようになります。


使える名詞が増えてくると、その名詞と関連する抽象的な言葉として動詞や形容詞を使えるようになってきます。

初めに使えるようになる動詞は、具体的な自分の行動を表す言葉となっているようです。

自分でその行為を行なえる具体的な行動を表す動詞から身につけていくようです。

名詞と違って対象物がありませんので、音だけで認知することは大人でもとても難しいことです。

その行為のことを理解するためには、理解するために必要な言葉を持っていないとできません。

この段階の子どもが、動詞の行為の内容を理解できる言葉を持っているとは思えませんので、言葉以外の感覚で認知することが必要になってきます。


「いく(行く)」という行為を表す動詞は、子どもが比較的早くから使えるようになることばのひとつです。

「いく」という言葉を使えるようになるためには、少なくとも「いく」という行為の一部でも認知していなければなりません。

この時期の子どもはほとんど名詞しか持っていませんので、「いく」という行為を認知するための言葉は持っていないことになります。

つまり、「いく」という言葉を、自分が持っている言葉以外の方法で認知していることになります。

これが、母親(役)が「いく」という言葉を使っている状態や環境を、言葉以外の方法で感覚として受け止めていることになります。


初めて「いく」という動詞を身につける時も、「おうち いく」や「じいじ いく」などと持っている名詞と関連して覚えていくようです。

この段階では助詞は使えませんし、せいぜい2語程度しか使えませんので、行為の内容を理解して「いく」を使っているわけではありません。

感覚として「いく」を使うことができているのだと思われます。

したがって、頓珍漢な場面で「いく」を使うこともありますし、全く異なる行為に対して「いく」を使ったりもします。

音として覚えた「いく」という言葉を使う場面を、経験を重ねて感覚として身につけていくことになります。


この感覚と「いく」という言葉が融合したものが、「いく」という言葉に対しての言語感覚ということになります。

このような感覚は、同じ名詞であっても抽象度の高いもの(「母語」段階ではほとんど持っていない言葉です)や動詞・形容詞を認知するためには必ずついてくるものになります。

言語感覚は、子どもの一番身近で影響を与える母親(役)がその言葉を使っている環境や条件を、あらゆる感覚で感じ取って認知してくものだと思われます。


幼児期健忘によって「母語」として持っている言葉のほとんどの記憶がリセットされても、身につけた言語感覚は言葉の記憶とは別に刷り込まれていると言われています。

この言語感覚がその後の言語習得に大きな影響を及ぼすものと思われます。


学習言語の習得が進んでくると「思考活動」ができるようになってきます。

「思考活動」は言語によってなされていますが、その根底には言語感覚が存在しています。

知的活動のための基本的な機能開発は「母語」によって行われてきていますので、「母語」における言語感覚が常に大きな影響を及ぼしていると言えます。


記憶の内容がエピソード記憶になっていくのにつれて、学習言語の習得が進んでいきます。

それに伴って、「思考活動」ができるようになってきます。

10歳頃になると、日常的に「思考活動」ができるようになり、自分で調べたり工夫したりすることができるようになってきますので、様々な知的活動が可能になってきます。

記憶の内容も、「いつ だれと どこで」が確認できるようになり鮮明さと正確さが一気に増してきます。

身につけた学習言語や知識によって、自分の独自の「思考活動」ができるようになってきますので、再び個人の持っている言語感覚が大きく反映してくるようになります。

「母語」で身につけた言語感覚が、新たに身につけた「国語」によって「認知活動」「思考活動」における個性として現れてくるようになります。

次の段階の「表現活動」で、その内容をどのように表現するかを身につけていくことになりますが、学校教育ではなかなか教えてもらえない環境になっています。


学習言語習得の後期にあたる10歳以降では、身につけた学習言語による知識の習得によって「認知活動」「思考活動」の能力を高めていくことと、さらなるより高度な学習言語の習得が行なわれていきます。

小学校も高学年になると、教科ごとの特性も明確になりそれぞれの教科における専門性も深まっていきます。

より高度な知識の習得のために、学習言語としてもより高度なより多くの語彙の習得や文体表現に触れていくことになります。


「母語」においては音だけで持っていた言葉が、読むこと書くことに対しての習得も進んでくることになります。

日本語の場合は他の言語に比べると、持っている文字の種類の多さや語彙の豊富さもあり、学習言語の習得の期間は極めて長いものとなっています。

義務教育の期間中はずっと学習言語の習得が続く内容になっているのは、日本を別にすると中国くらいのものです。

共に、漢字という文字を持っており、一般的な新聞を読むことができる漢字を身につけるだけでも義務教育期間のすべて(両国ともに15歳まで)を必要としています。


それ以外の国の言語が、口頭言語であり文字種もほとんどが一種類であるために、小学校低学年で学習言語の習得が完了しているのに比べると大きな違いとなっています。

そのために、義務教育の中でも「認知活動」「思考活動」に次いで「表現活動」として自己表現や議論技術やディベートなどの言語技術を身につける構成となっています。

日本と中国においては、義務教育においての「表現活動」に対して向けられている時間が圧倒的に少なくなっています。

持っている言語が大きいために、その習得のために時間がとられてしまい、言語を使って表現するための技術を学ぶ時間がほとんどないのが現実となっています。


言語が大きいと言うことは、知的活動において優位性を持っていることにほかなりません。

しかし、言語そのものを身につけるために必要な時間が多すぎるために、その言語を使う技術を身につける時間が少なすぎることもまた、大きな言語持っていることの弊害ということもできます。

せっかく持っている大きな言語を生かせる技術は、自分で身につけていかないといけなくなっているのが現状です。

イギリスにおける、自分たちで脚本からすべて行う演劇を取り込んだ「表現活動」のカリキュラムや、アメリカにおける学年に応じた様々なディベートスタイルによる「表現活動」など、参考になるものはたくさんあると思います。

日本語の持っている力に彼らの表現技術が加わったら、どんな世界が訪れるのでしょうか。

想像しただけでも楽しくなりますね。






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