それぞれに、人の持つ知的活動に大きな影響を与える言語ですが、「母語」の場合は初期の習得のための役割を完了するとほとんどが記憶から消えてしまう言語です。
知的活動の「認知活動」の習得に大きな影響を与えるとともに、人としての基本的な知的活動のための機能を作るのに大きな影響を与えた「母語」は、具体的な言語としてではなく言語感覚として残ることになります。
「母語」という言い方は、受け継ぐ子どもの側から見た表現であり、子育てに直接かかわる母親(役)から伝承される極めて個人的な言語であるところから来た呼び方となっています。
言語の習得において、伝承言語である「母語」の次に来るのが学習言語です。
「国語」と言った方がわかりやすいかもしれませんね。
伝承言語から学習言語への移行期に、万人に共通する大きな現象があります。
「幼児期健忘」と呼ばれる現象で、数週間の間にそれまでの記憶がリセットされてほとんど消えてしまうことが起こります。
正常の大人でこれだけの記憶の変化が起きるのは、病気としての痴ほう症や認知症以外にはありません。
しかも短い期間で一気に起こるのです。
昔の研究結果ですが、民族によっての幼児期健忘の発現時期に差があることが報告されています。
それによれば、ニュージーランドの先住民であるマオリ族で平均2歳9か月頃に幼児期健忘が起きるとされています。
比較として出ているのは、ヨーロッパ族で3歳7か月頃、アジア族では4歳10か月頃に発現するとしています。
私などは、この結果を見ると言語の習得難易度との関係を考えずにはいられませんが、言語との関係については触れられていません。
幼児期健忘については、各方面で現象としての確認はされていますが、どうして起こるのかというメカニズムについてはいまだに定説がなく解明されていない状態です。
人間については、現実に見える部分での研究についてはさまざまな技術の開発に伴って一気に進んできましたが、仕組みやメカニズムについてはまだまだ分からないことの方がはるかに多い分野となっています。
さまざまな分野からのアプローチがされていますが、いまだに解明されていないことのひとつです。
「母語」から「国語」に移行していく段階では、「思考する」と言う活動はできていません。
会話が成り立っていたり、質問に答えられたりしてると思える場合でも、聞き取った言葉に対しての反射で言葉が出ているだけであり、「思考活動」が行なわれているわけではありません。
一般的には日本語を「母語」とした場合には4歳歳から5歳頃にかけて、習得期間を完了すると言われています。
その頃の記憶の保持期間は1週間に満たないという報告がされており、わずかに数日であるとする見方もあるようです。
脳の発達にともなって記憶保持できる期間も増えてきますが、「母語」の習得が完了する時期では数日間しか記憶が持続しません。
一週間ごとに何か習い事をしても、記憶としては何も残らないことになりますね。
「母語」として身につけた言語も他の記憶と同様に、幼児期健忘によってリセットされます。
したがって、幼児期健忘以降に持っている言葉は、その前から毎日のように使用し日々新しい記憶として書き換えていったものか、幼児期健忘以降に記憶された言葉となります。
言語習得初期から幼児期健忘の直前までに使われた言葉の記憶は、ほとんどなくなることになります。
個人的には、「母語」の習得完了時期と幼児健忘の発現する時期が、何らかの関係があるのではないかと思っていますが、残念ながら検証する術がありません。
幼児期にどんな英才教育をしても役に立たないことは、幼児期健忘によっても説明可能かもしれません。
それでは、幼児期健忘によってほとんどの言葉を失ってしまった「母語」は、知的活動のための機能発達に影響したことによってその役割を終わったのでしょうか。
言語としての役割も学習言語にすべて渡していくのでしょうか。
幼児期健忘を経過した後は、時期的にまだ学習言語に触れていないと思われます。
したがって、日常的に使用している言葉は「母語」として身につけた言葉であり、「母語」に対してさらに追加・補強された言葉です。
幼稚園では年長で初めて、ひらがなに触れることになりますが、学習言語としての統一的な習得を狙っているわけではないので、「母語」として触れていると思った方がいいのではないでしょうか。
この時期は、「母語」を使うことによって知的活動の中の「認知活動」を行っている時期です。
対象物を自分の言葉である「母語」で理解しようとする活動です。
幼児期の言葉は名詞がほとんどです。
身の回りにある物や人を認知しようとすることから始まりますので、動詞や形容詞よりも具体的な周りのものの名詞が多くなります。
また「認知活動」を行うために「母語」をキーとした各種感覚を総動員して、理解し始めた言語についての言語感覚(おもに言語による母親を中心とした周囲の反応によって)を身につけていきます。
言語によるコミュニケーションが十分にできないために、他の感覚が極めて敏感になっています。
やっと持ち始めた言語とこの感覚が融合して、「母語」独特の言語感覚として刷り込まれていきます。
特に物の状態や動きを表す形容詞や動詞が使えるようになってくると、言葉に伴う感覚が必要になってきますので、そこそこ発達してきた脳においても一気に言語感覚が磨かれていくことになります。
この言語感覚が自分独自の言語感覚として、これ以降の言語の習得に影響を及ぼしていくことになります。
明確な学習言語としての「国語」の習得は、小学校に入学することによってはじまります。
いきなり学習言語を教え始めても習得は難しいことになります。
スムースな習得には「母語」が重要な役割を果たします。
(2)の「思考活動」で見たように、学習言語は知識やルールを学ぶために必要な共通語です。
この言語によって、社会性や論理を学ぶことができるようになるのです。
「母語」は母親(役)から伝承された極めて個人的な言語です。
「母語」同士で会話をしても、共通理解は難しいものとなります。
同じ言葉で同じ理解をしないと知識やルールとして役に立ちません。
日本語のなかで、学習言語として決められた規則で表現するために選ばれた言語が「国語」です。
大きな日本語のなかでも、ある一定のルールによって、誰でもが同じ理解ができるように定められた言語が「国語」になります。
特に義務教育の期間において、統一的な共通知識を身につけるために定められた言語であるために、すべての日本語使用者にとって共通語的な役割を持った言語となっています。
「母語」が母親(役)と子どもとの間のきわめて私的な言語であったのに比べると、大きな違いがあります。
私自身は勝手に、幼児期健忘は、親子の間だけに通用する「母語」をリセットして、共通語としての「国語」を身につけるために起こる記憶のクリア現象でないかと思っています。
生まれてから知的活動ができるための基本機能が活動できるまでは、保育者(母親)との共通理解が必要です。
そのために伝承言語として母親(役)から言葉を受け継ぎ、同じ感覚を持つようになります。
そして、この「母語」によって知的活動のための基本機能が開発されていきます。
やがて、思考活動や社会生が出始めると、社会における共通の知識やルールが必要になります。
それは私的な言語であっては共通性が阻害されますので、多くの人との共通言語による共通理解が求められます。
そのような知識やルールを身につけるための言語が学習言語(学ぶための言語)となります。
新しい文字や言葉、聞きなれない表現などを短い期間に大量に身につけなければいけません。
その時に一番活躍するのが「母語」によって身につけた言語感覚ではないでしょうか。
「母語」によって身につけた言語感覚は、同じ日本語に対する感覚ではありますが、一人ひとり微妙に異なっています。
学習言語の習い始めのころは「思考活動」ができませんので「母語」によって身につけてきた「認知活動」能力によって新しいことを記憶することが中心になります。
その理解においては「母語」によって作られた言語感覚に頼ることになります。
小学校の低学年で覚えた言葉は、個人によってそのニュアンスがかなり違ってしまうのはこのためです。
「国語」の学習が進むにつれて、少しずつ「思考活動」ができるようになってきます。
すると、「認知活動」においても使用する言語が「母語」から新たに身につけた「国語」へと移っていきます。
記憶の保持できる期間が大きく伸びてきますので、一週に一度の授業でも記憶していることが多くなってきます。
「国語」と「算数」は毎日授業がありますので、次から次へと記憶されていくことが増えていきます。
一通りの基本的な学習言語が身について、本当に基礎的な学校生活で必要な知識やルールが身について、「思考活動」が日常的にできるようになるのが10歳頃であろうと言われています。
一般に言われる「物心がつくころ」という時期ではないでしょうか。
このころになると、記憶の保持期間は二週間程度は持っているようで、ほとんど大人と変わらないレベルまで来ています。
また、記憶の内容についても、「エピソード記憶」として「いつ、だれと、どこで」を伴った記憶として保持されるよになると言われています。
時間の感覚や、自他の感覚、場所や方角の感覚が備わってきていると言うことだと思います。
記憶の精度が高くなり、身についた学習言語によってさまざまな知識を習得する準備が出来上がった時期と言えるのではないでしょうか。
この段階であっても幼児期健忘を経験した「母語」による言語感覚は、消えることがなくその後の習得していく言語のすべてに対してこの言語感覚が影響を及ぼしていると言われています。
「母語」によって開発された知的活動のための基礎機能は、「母語」によって使用されるときにその機能を最大限に発揮できるものと思われます。
母語によって刷り込みされた言語感覚は、知的活動において一番能力を発揮できる言語に近い感覚で習得するためにあるのではないでしょうか。
学習言語の習得は、初めの段階は「母語」によってなされています。
やがて、「母語」によって身につけた学習言語によって、さらに新しい学習言語を習得していきます。
新しい学習言語を理解して身につけるためには、そこまでに持っている言語での「認知活動」が必要です。
一部では「思考活動」も必要かもしれません。
これらの活動は、その時点で持っている言語でしかできません。
10歳頃までには少しずつ「思考活動」ができるようになってきますので、単なる記憶することに比べると調べて理解することができるようになってきます。
教科書以外の本を読んだり、辞書を調べたり、人の話の内容を理解したりして、加速度的に言葉・知識が増えていきます。
厳密に言いますと、全国の小学校で全く同じ教科書を使ったとしても、学習には教科書だけでなく先生の説明が付きます。
その先生の持つ方言やアクセント、いわゆる言語感覚によって同じ教科書を使用しても伝わる言語感覚は微妙に異なります。
それでも、文字が同じであったり、理解できる程度の誤差であったりすることによって、「国語」は立派に日本語の共通語としての役割を果たしています。
その微妙な違いだけでは、一人ひとりの言語に対する理解や習得の違いの説明がつきません。
もっと大きな違いとなって存在しています。
それは個性とも言えるほどのものになっているのではないでしょうか。
そこには「母語」の影響があると言わざるを得ないと思います。
同じ小学校で同じように習っていても、10歳前くらいから会話が理解しにくい子が現れます。
言葉の選択もままならず、持っている言葉と言語感覚だけでの会話ですので、「母語」の影響がまともに出ます。
地元から遠い地域から(方言の違うような)来た子どもや、生活環境が大きく違う子ども(大金持ちや大貧乏)、外国語が混ざっている子どもなど言語感覚の違いに子どもたち自身が戸惑います。
それでも同じ日本語であれば、基本的なところでは同じですので学習言語の習得が進むにつれて、馴染んできます。
ところが外国語が混ざっている場合は、言語としての感覚の根本が異なりますので大変になります。
ましてや、日本語は世界のどの言語とも一番遠い言語です。
アルファベットを使っている言語同士ならまだ共通感覚がありますが、日本語だけはどうにもなりません。
海外から戻ってきて、日本の小学校に入った場合も、低学年のうちはほとんど問題がありません。
このタイミングで気がついてくれる先生がいたらそれはとてもありがたいことです。
学習言語を日常的に使い始める3・4年生になってくるといろんなところに影響が見えてきます。
そうならないように「母語」の段階で注意して環境を整えてあげたいですね。
「母語」は生涯書き換えることができない言語です。
「母語」は学習言語の習得にも大きく影響します。
もっと多くの人に知ってもらいたいことだと思います。
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