古今和歌集にも伊勢物語などにも載っている、在原業平の有名な歌です。
月やあらぬ 春やむかしの 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして
この歌の一部、とくに「月やあらぬ」はその後にも数多く引用され、いわゆる「本歌取り」としてこの歌を引用した歌は百首以上になっています。
歌の背景と意味を簡単に触れておきましょう。
ある男は、身分の高い女と契りをかわしましたが、その女の人が簡単には通っていけない別の場所に移ってしまい合えなくなりました。
翌年の春、梅の花が美しく咲いたころ、面影を浮かび上がらせる月影の夜に、男は女がかつて住んでいた場所を訪れて昔を偲びながらこの歌を詠みました。
一見すると弱々しいものと見えるかもしれませんが、歌の意味をじっくりと考えてみると情熱的な愛の告白であることがわかります。
月も変わったかもしれない、春も昔の春とは違うかもしれない、私だけが、私の思いだけが変わらないのだが・・・
のちの歌論書などでも秀歌として取り上げられている歌です。
世界で最もよく翻訳されている和歌の一つです。
アリゾナ州立大学のアンソニー・チャンベルズ教授が、ネット上にあらゆる種類のこの歌の英訳を公開しました。
そこには実に50種類くらいもあったそうです。
その中にはフェノロサの訳までが含まれています。
詩歌の翻訳家だけでなく研究者でさえもが、既に存在する訳を引用しようとせずに、自分なりの訳を試みるのはなぜなのでしょうか。
この「月やあらぬ」の不思議な魅力はどこにあるのでしょうか。
十九世紀末から現在に至るまでの「月やあらぬ」の英訳の流れは、和歌翻訳の歴史そのものを示すとともに、日本文化に対する知識や理解のずれを見ることができるものとなっています。
「心づくしの日本語」(ツベタナ・クリステワ、ちくま新書)にはいくつもの英訳が取り上げられており、解説を見ながらとても興味深く読むことができます。
その中で、言われていることがあります。
この歌の英訳に挑戦した人たちは皆、優れた学者か翻訳の専門家です。
歌の意味を誤解したとは到底考えられません。苦労して英訳された割には完全に納得のいく英訳になっていないと言い切っています。
それは知識不足や力不足ではなくて、あいまいさを内包して重んずる和歌表現と、断定的な調子を重視する英語との間の溝が、どんなに努力しても埋められないほど深いものであるからだと言っています。
YES/NOや右/左などの境界を超越した日本語とは異なって、英語ではどうしてもどちらかに決めないと表現ができないとしています。
日本語はYES/NOの中間領域をも非常に微妙なニュアンスで表現することができます。
そのうえ、両極端である、YESとNOが同時に存在していることも表現することができるのです。
この関係で英語表現ですぐ思い浮かぶのが、"To be, or not to be"ではないでしょうか。
ハムレットの有名なこの言葉は、まさしく英語の表現力そのものではないかと思われます。
ですから、日本語にはものすごく訳しにくいのです。
日本語にしかできない表現もあれば、英語にしかできない表現もあります。
そこを見つけた時の面白さはまた格別なものがあります。
"I love you."の和訳にも様々なものがあります。
有名なところでは夏目漱石と二葉亭四迷のものがよく取り上げられます。
「月がきれいですね。」(夏目漱石)
「わたし、死んでもいいわ。」(二葉亭四迷)
この部分のみ取り上げられることは、当人にとっては本意ではないと思われますが、二人の優れた文人による全体訳を見てみたいところですが、どの本を訳したものかは両方とも定かではありません。
この訳のところだけが後世に伝わってきていると言うことを考えただけでも、それだけ当時の人にとっては"I love you."は直接的な衝撃的な言葉だったのではないでしょうか。
日本語だけを見ていたのでは、日本語の特徴はいつまでたっても見えてきません。
また、世界の文化や言語やそれを持った人たちと触れることがなければ、日本語の特徴を知ったところで何の役にも立たないのではないのでしょうか。
社会活動にしても言葉にしても、英語がなければ成り立たない世の中になっているのが現代です。
より英語を英語話者を理解するためには、日本語・日本語話者との比較において考えることが大切です。
そうすることによって、結果としてより日本語をよく見ることになるのです。
日本語をよりよく理解するためには、英語から離れることは逆効果です。
英語と触れる機会が増えることによって、さらに日本語の特徴が際立ってくるのではないでしょうか。
母語としての日本語を持っている私たちが、英語の言語感覚を持つことはできませんが、それを理解することはできます。
英語の言語感覚を理解したうえで、より英語に訳しやすい日本語を使うことは可能です。
そのことが日本語の持つ最大の特徴である「あいまいさ」をいい意味で補う最良の方法です。
日本語は、世界の言語のなかでその成り立ちも含めてきわめて特殊な言語です。
しかも、その特殊性が世界から注目を浴びているものです。
もっともっとよく知る必要がありそうですね。
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