万葉仮名は見た目は漢字そのものであり、平仮名は平安初期に共通の字体として定着した、現代の「ひらがな」とほぼ同じものです。
古今和歌集においてその技術的な典型をたくさん見ることができる「掛詞(かけことば)」は、平仮名が使用はじめられたことによる同音異義語を利用したテクニックです。
(参照:かな文字が生んだスーパーテクニック(掛詞))
しかし、万葉集においても数は少ないものの、「掛詞」の例を見ることができます。
万葉集の場合は歌の音を表すのに漢字が使用されています(万葉仮名)ので、それぞれ意味のある文字となっています。
同じ音であっても、表記する漢字を変えることによって「掛詞」の技術を表していると思われます。
万葉集の第一巻の二番目の歌の一部で使われた二つの「たちたつ」を見てみましょう。
「・・・國原波 煙立龍 海原波 加萬目 立多都 ・・・」
(・・・国原は 煙立ち立つ 海原は かもめ立ち立つ・・・)
意味としては、「広い平野にはかまどの煙があちこちから立ち上がっている、広い水面にはかもめが盛んに飛び立っている」と言うことです。
「煙立龍」の場合は、「龍」が雲を想像させるので、煙があちこちから立ち上がっているイメージが伝わってきます。
また、「加萬目立多都」においては、「たつ」が「多」と「都」(全てと言う意味)で表記されているので、多数のカモメが一斉に飛び立つ姿が目に見えるようです。
一方、平安期に定着した平仮名においては、同じ音に対して異なる表記を用いて、意味を区別したり補ったりする万葉仮名の使い方を見ることは出来ません。
確かに文字の草体化の過程においては、「し」の元字として「之」「志」「新」があったことなどは確認することができます。
それでも仮名文字は、同音の言葉を差異つけするのではなく、差異をなくす方向で発展していったことは間違いありません。
つまり、万葉仮名から平仮名へという文字の発展は、一つの表記で同音異義語を同時に表すという「掛詞」の効果を産んでいったのです。
漢字が再び日本語の表記として現れ出すのは、和漢混用文が成立した時です。
この文体を最初に使ったのが平安末期の「今昔物語」だと言われています。
さらには文章の主体として和漢混用文が定着するのは鎌倉時代以降まで待たなければいけません。
ここから言えることは、仮名文字(平仮名)の成立から和漢混用文の定着までの期間は、「やまとことば」の表現力を徹底的に発展させる期間だったということです。
「やまとことば」が持つ、広がりのある概念は、現代の私たちには曖昧さとして映ります。
音として持っていたその広がりを、文字によって表現していく過程がこの期間だったのではないでしょうか。
結果として「やまとことば」の発展の場となった和歌においては、文字の流れは常に二重あるいはそれ以上に読めるのです。
意味の多義性は、和歌解釈の結果としての「掛詞」技術ではなく、「やまとことば」が本来持っていた広がりの、文字表現としての前提や出発点なのではないでしょうか。
このことは濁点にも言えることではないでしょうか。
濁音を表す記号は、平安時代に作られた辞書『類聚名義抄』に初めて使われたと言われています。
と言うことは、平仮名の全盛期には日常会話にはすでに濁点のある言葉が使用されていたと思って間違いはないでしょう。
それにもかかわらず、和歌と言う表現方法における平仮名には濁点を表記していません。
濁点を持つ言葉の存在と平仮名を発展させてきた能力をもってすれば、濁点を表記する方法などいくらでも編み出せたはずです。
それにもかかわらず、平仮名表記における濁点をしていないと言うことは何を意味しているのでしょうか。
音としての「やまとことば」の持つ懐ろの広さを、文字として表すためには濁点が邪魔であったと考えることが一番理に適っているのではないでしょうか。
曖昧さの排除のためには、音と文字の一対一での対応が不可欠です。
1900年ころに義務教育で教える文字のとしての「ひらがな」が決められました。
いま、私たちが習ってきているものと同じものです。
現代社会では、表現としての懐の広さは、主に曖昧さとして受け取られてしまいます。
今の社会の基準がそうなっているからですね。
表現としての懐の広さが、優雅さや奥ゆかしさとして想像を掻き立てた時代があったことは間違いないのでしょう。
すべての表現が正確さを求められているわけではありません。
「やまとことば」の持つ広さがうまく活きる場面も沢山あります。
平仮名と言う文字は文化そのものではないでしょうか。
楽しんで使っていきたいですね。
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