そう思って考えてみると思い当たることがたくさんあるのではないでしょうか。
個人の持っている言語の限界が、その人の思考の限界となります。
そして、この思考する言語とそのための知的活動の機能は、幼児期の母親からの伝承言語である「母語」によって決まってしまうことがわかっています。
個人での知的活動であれば、個人の言語である「母語」で行うことが活動内容とツールとの相性が一番いいことになります。
表面的にはバイリンガルであったとしても、そこには母語から第二言語への翻訳が行なわれています。
母語以外の言語をうまく使いこなしている人は、母語からその言語への翻訳の効率がいい人です。
基本的には母語以外の言語で思考することはできないからです。
日本語を母語として持っている人の思考の特徴は、言語としての日本語が持っている特徴がそのまま反映されます。
言語は文化の歴史が反映されたものですので、個人としての思考の特徴は母語が他の言語に対して持っている特徴がそのまま現れてきます。
日本文化が他の国の文化と大きく異なっている点は、対人関係である彼我の関係の捉え方についてです。
彼我の同調性を基本とする日本文化は、彼我の違いを明確にしようとする欧米の文化に比べると、差異を明確にすることを嫌う傾向にあります。
さらには、その差異について指摘したりされたりすることを嫌います。
言語外のコミュニケーションである、「以心伝心」「一を聞いて十を知る」などのように、相手の心情を推し量って対応することを良しとする傾向があります。
数千年の歴史の継続によって形作られてきた文化的な背景は、それを表現するのに適した言語を生み出します。
特に日本語は、元になる漢語こそ中国からの借り物ですが、そこから生み出した「ひらがな」「カタカナ」は日本独特な言語となっています。
さらに明治期においては、日本独自の膨大な漢語を生み出し、本家中国への逆輸出によって中国の近代漢語に大きな影響を与えています。
日常表現の基本形である「漢字かな混用文」は日本独自のものであると言ってもいいと思います。
日本語による思考の特徴は、文化的な背景も影響しながら中間領域を大切にすることが挙げられます。
自分で意識しなくとも、母語として持っている日本語がそのような思考をしやすくなっていると言うことができます。
言語感覚として身についていると言ってもいいかもしれません。
「YES/NO」や「右か左か」といった明確な区分をつける思考を嫌う傾向があります。
日本語の持っている言語感覚が、両極端の概念の中間領域に思考の焦点を当てるようになっています。
中間領域の議論においては様々な発想が繰り広げられることがあります。
両極端の議論においては、議論にすらならないことが多くあります。
ビジネスの世界では中間領域における思考が「あいまいさ」につながることが出てきます。
しかし、実際の運用や活動においてはほとんどが中間領域におけることばかりで、両極端のどちらかで解決することは極めてまれなことです。
まさしく、論理的な明快さを実際の活動に反映させることのむずかしさがここにあります。
欧米流の二元論に基づく両極端を中心とした思考と、日本流の中間領域を中心とした思考とは相入れないものではありません。
ただし、中間領域の思考は両極端を含んだ思考ができますが、両極端の思考は中間領域がなくなったり薄くなったりする傾向があります。
そこでは、日本側の思考が欧米の思考を考慮した方がスムースに運びます。
中間領域の思考からは十分に両極端を理解することは可能ですが、両極端の思考からは中間領域を理解することが難しいからです。
日本語による思考に、相手の思考ツールの特徴に合わせた表現方法を加えたら最強のものにならないでしょうか。
世界の他の国や他の言語を母語とする人から一番遠いところにある言語が日本語だと思います。
その日本語が持っている可能性は、まだまだ使われていないものがたくさんあるのではないでしょうか。
日本語で思考することの特徴は、あくまで特徴であって、場面によっては長所とも短所ともなるものです。
特徴を理解したうえで、他の言語を母語とする人との付き合い方を考える必要があるのではないでしょうか。
日本語を母語とする私たちが、世界では珍しい存在なのです。
自分たちの特徴を理解したうえで、世界と付き合うことはとても大切なことですね。
理解してもらえないことを相手のせいにするのではなく、彼我の言語による違いであることが判ればもっと相手の理解しやすい表現が可能になりますね。
日本語の可能性はまだまだあると思います。
こんなことが探していけると楽しいですね。
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