2014年4月6日日曜日

ブレない自分のために

新入社員研修2日目に大きな試練にぶつかりました。

それは外部からの評価を抜きにしてしまったら、自分の存在が見つけられなくなってしまうことでした。



自分以外の外部からの評価の代表は、試験の成績であり、勤務評価であり、報酬であり、満足感の表明であったります。

これらすべての自分に対する評価が、自分のなんらかのパフォーマンスの結果に対しての評価です。

同じ結果に対してもどのように評価されるかは、評価者の判断によるものとなってしまいます。

しかもその判断基準は自分が決められないところにあるものばかりです。


そして、あたかもその評価によって自分の存在価値が決められてしまったかのように感じてしまうものです。

ですから、その評価者の評価を良くしてもらうことに必死なって活動することになります。

ひいては活動するためのモチベーションが良い評価を得ることになってしまいます。

さらに一部の切り取られた時期におけるその評価が、全人格的な評価のような錯覚に陥ってしまうことになります。


振り返れば、私たちはもの心のついた時から、あらゆる場面で外部からの評価を受け続けています。

幼い時には親の評価、学校の先生の評価、友達の評価・・・

試験を受けるということは、自分から評価をしてもらいに行っていることにほかなりません。


あるタイミングで出た結果に対してなされた評価が、他の場面でもそのまま引用されていることは枚挙にいとまがありません。

より大きな組織やより権威があるとされている団体が行なった評価が、あらゆる場面で利用されています。


この外部による評価の中でしか、私たちは存在することができないのでしょうか。

評価を受けている私たち自身が、この評価を利用していることも事実です。

すべての条件が共通であると思い込まされている環境の中で出した結果に対する評価は、比較対照するのにふさわしいものなのでしょうか。


自分が納得のいく結果を出した時にされた評価が、自分の納得のいかないものであった場合はどうなるのでしょうか。

ギャップが大きな場合はどう感じるのでしょうか。

ギャップが小さい場合には、仕方がないとその評価を受け入れているのでしょうか。


私たちは、外部からの評価がなくては生きていけなくなっていないでしょうか。

成績というテストの結果による評価をされ、入学試験という試験の結果によって評価をされ、人事評価という会社活動の結果によって評価をされて、人生のほとんどのことが決まっています。


100万円の原価をかけて作ったものが、50万円という評価を受けたらどうなるのでしょうか。

100万円をかけて作ったことは無駄なのでしょうか。

100万円をかけて作ったものが、ほとんど金額に評価されないものだったらどうなるのでしょうか。

現実にはよくある話です。

私たちが100万円で購入したのものの購入後の評価は、ほとんどの場合は100万円になることはありません。

これは意味のないことなのでしょうか。


100万円のお墓はそのお墓に対する外部の評価が100万円になることはありません。

でも100万円のお金をかけて墓石を立てるのはなぜでしょう。

中にはお墓に100万円をかけたことに価値を見出す人もいるでしょう。

また、100万円の金額をかけた墓を立てたことに対する外部の評価に価値を見出す人もいるでしょう。

あるいは、100万円という金額よりは、先祖のために自分の納得がいく墓を立てることに価値を見出す人もいるでしょう。



ブレない自分のヒントがここにあるのではないでしょうか。

自分の価値を外部の評価の及ばないところにおいていることです。

納得のいく墓を立てることに価値を置く場合は、立てた後の評価はどうでもいいのです。

納得のいく墓が立ったことを喜ぶことはあっても、それは外部の評価ではなく自己の満足感です。

納得のいく墓を立てることに価値があるのであって、結果として納得のいかない墓を立ててしまっても、納得のいくまで立て直すかそのまま妥協するかだけであり外部の評価は全く関係ないのです。


ブレない自分であるためには、外部の評価を受ける結果に価値を求めるのではなく、結果の前の行動に価値を置くことです。

もちろん欲しい結果は存在します。

行動の結果として欲しい結果が手にできなかったことを、人は失敗という評価をします。

欲しい結果が手に入らなかったときは、欲しい結果を求めてさらに活動するのか、そこで妥協するのかしかありません。

外部の失敗という評価は全く関係ないのです。



外部の評価は、ある時間的な瞬間や期間の結果を捉えて評価をします。

そうでなければ比較できないからです。

活動自体は続いているのに、比較評価をするために無理やり結果を作ることもたくさんあります。

会計年度はその最たるものです、棚卸もそうです。

基準を設けて税金を徴収するために必要だからです。


今なお、続けている活動を部分的に切り取って、その結果に対してされている評価に意味はあるのでしょうか。

それよりも、欲しい結果に対して活動を行っていること、活動し続けていることの方がはるかに価値があるのではないでしょうか。

外部が良い評価しているとわかっているものを簡単な活動で手に入れようとしていないでしょうか。

すでに一定の評価が定まっているものを、できるだけ簡単に手に入れようとしていないでしょうか。


もっと、欲しい結果につなげるための活動に目を向けられないでしょうか。

欲しい活動を続けている限り、時間を切り取らなければ欲しい結果は必ず手に入ります。

しかし、人間が時間を生きていますのでその時間は有限です。

限られた時間を切り取って、その時点の結果で決めつける方がはるかに簡単です。


人の評価に左右されないブレない自分は、結果を追い求めつつもその結果に向かって活動していることに集中していることではないでしょうか。

求める結果に対して確実に向かっていることを実感できている場合は、外部の評価はほとんど気にならないはずです。

そこに価値を見出すことができれば、ブレない自分でいられるのではないでしょうか。

外部の者は、そこを見た評価はしてくれません。

自分でそこに価値を見出し、仲間を見る目を結果ではなく求める結果に対して活動し続けていることに向けられないでしょうか。

きっとできると思っているのですが・・・