その思考のための唯一のツールが言語であることがわかっています。
したがって、すべての知的活動が言語によってなされていることになります。
人の言語を決定しているのが幼児期に身につけた「母語」(ぼご)です。
この「母語」には以下のような特徴があります。
- 幼児期の4歳蔵までにしか身につかない言語
- 知的活動のために必要な人の基本機能を決めてしまう言語
- 生涯書き換えのきかない言語
- 思考のための唯一の言語
- 学習言語(国語)や第二言語習得のさいに特に必要な基礎言語
- 母親から受け継ぐひとりずつ異なる伝承言語
「母語」は母親から受け継ぐ日常語です。
母親が普段使っている「ことば」そのものです。
肉体的な発育が進んで活動範囲が増えてきた子どもは、外部からも「ことば」を拾ってきますが、その「ことば」について母親と確認している姿は目にしたことがあると思います。
母親から直接伝わる「ことば」もあれば、母親が誰かと会話していることで間接駅に伝わる「ことば」もあります。
いずれにしても、母親を経由して「ことば」を身につけていくことに変わりはありません。
「母語」そのものはそれぞれの母親の持っている方言やアクセントを受け継ぎますので、きわめて個別のものとならざるを得ません。
同じ日本語の中でも意味の通じない方言や言葉はたくさんあります。
より正確な伝達と理解を共有するために、義務教育で日本語としての共通標準語として「国語」を身につけることが行なわれます。
また、この「国語」を学習言語として、各教科によって広範な知識を習得することが求められていきます。
したがって、国語科は単なる一教科としての存在ではなく、小学校以降のすべての学習のために必要な学習言語を学ぶ基礎教科となっているわけです。
そして、すべての教科の教科書は、国語科の習得進度に合わせた表現によって書かれています。
特に教科による表現が「国語」から遠いところにありながも、知識として重要だとされている「算数」は、小学校一年生から独立した科目として学ぶことになっています。
それでも算数や理科の教科書においては、その分野独特の表現が数多くあるために、国語科の習得度が遅い生徒にとっては理解しにくいものとなっていきます。
結果として、教科独特の表現がより鮮明になってくる小学校高学年になってくると、明らかに理解度の低い教科ができてしまうことになります。
これを補うためには、理解度の低い教科を教えるのではなく国語科を丁寧にやり直すことが一番の方法であることは、教育に携わるものであれば誰もが理解していることとなっています。
知的活動の基本となる学習活動においてさえ、学習言語としての国語の「ことば」によって行われているわけです。
一般的に私たちが使っている言語は「母語」を基本として「国語」によって強化されたものです。
そして、すべての知識がこの言語によって身につけられていきます。
つまりは、個人の持っている知識とは個人の持っている「ことば」に他ならないのです。
専門家というのは専門の分野における「ことば」をたくさん持っている人のことにほかなりません。
そして、使える知識になっているかどうかは、その「ことば」が誰にもわかる共通語の「国語」で言い表すことができるかどうかということです。
「ことば」はすべての人が固有のものとして身につけています。
「ことば」の基本である「母語」が固有のものである限り当然のことなのですが、このことを意外と忘れていることがあります。
「国語」だけが日本語であり、「国語」以外のものは日本語としてはおかしなものである、という間違った感覚がどこかに植え付けられています。
学校教育のなかで「国語」だけが正しい日本語であるとして、試験のたびに〇☓をつけられている間に出来上がってしまった感覚だと思われます。
正しい日本語など存在しないのです。
「ことば」としての日本語はすべての方言を含むものでありながら、日々変化しているものです。
ある時期の一番理解の多い内容を切り取って、共通語としての「国語」としているだけのことです。
しかし、共通語としての「国語」の存在は大きなものです。
誰もが同じ認識をできる「ことば」としての位置付けは非常に大切なものです。
知的活動の基本は、認知→思考→表現の活動によってなされています。
そのすべてが「ことば」によってなされています。
認知することと思考することは、自分独自の「ことば」だけでも行うことが可能です。
しかし、表現することは自分の「ことば」だけではその本来の目的である人に理解してもらうことは不可能になります。
また、認知においても起っている現象(問題)を人と共有することがついて回ります。
共有するためには同じ「ことば」に同じ認識ができていることが前提になります。
より多くの人と共有する必要がある場合や、より多くに人に理解してもらう必要がある場合は、同じ「ことば」でも共通語として通用するものを選択することになります。
アウトプットとして、人に伝えて理解してもらうための表現をすることによって初めて、自分固有の「ことば」かどうかの確認ができることになります。
私たち学校教育のなかで試験として評価されてきたことは、教育として教え込まれてきた「ことば」たちがどれだけインプットされて記憶としてとどまっているかを比べられただけのことです。
その「ことば」たちを使って表現することは、ほとんど求められてきませんでした。
学校教育では知的活動のための表現の技術をほとんど身につけていないことになります。
すべての知的活動が「ことば」によって行われている以上、「ことば」を磨くことはそのまま知的活動の質を磨くことにつながります。
より多くの「ことば」を発信し、共有することによって「ことば」はどんどん磨かれていきます。
もっともっと「ことば」をやり取りして、個人特有の「ことば」に刺激を受けて、自分の「ことば」を磨いていきませんか。
それでも算数や理科の教科書においては、その分野独特の表現が数多くあるために、国語科の習得度が遅い生徒にとっては理解しにくいものとなっていきます。
結果として、教科独特の表現がより鮮明になってくる小学校高学年になってくると、明らかに理解度の低い教科ができてしまうことになります。
これを補うためには、理解度の低い教科を教えるのではなく国語科を丁寧にやり直すことが一番の方法であることは、教育に携わるものであれば誰もが理解していることとなっています。
知的活動の基本となる学習活動においてさえ、学習言語としての国語の「ことば」によって行われているわけです。
一般的に私たちが使っている言語は「母語」を基本として「国語」によって強化されたものです。
そして、すべての知識がこの言語によって身につけられていきます。
つまりは、個人の持っている知識とは個人の持っている「ことば」に他ならないのです。
専門家というのは専門の分野における「ことば」をたくさん持っている人のことにほかなりません。
そして、使える知識になっているかどうかは、その「ことば」が誰にもわかる共通語の「国語」で言い表すことができるかどうかということです。
「ことば」はすべての人が固有のものとして身につけています。
「ことば」の基本である「母語」が固有のものである限り当然のことなのですが、このことを意外と忘れていることがあります。
「国語」だけが日本語であり、「国語」以外のものは日本語としてはおかしなものである、という間違った感覚がどこかに植え付けられています。
学校教育のなかで「国語」だけが正しい日本語であるとして、試験のたびに〇☓をつけられている間に出来上がってしまった感覚だと思われます。
正しい日本語など存在しないのです。
「ことば」としての日本語はすべての方言を含むものでありながら、日々変化しているものです。
ある時期の一番理解の多い内容を切り取って、共通語としての「国語」としているだけのことです。
しかし、共通語としての「国語」の存在は大きなものです。
誰もが同じ認識をできる「ことば」としての位置付けは非常に大切なものです。
知的活動の基本は、認知→思考→表現の活動によってなされています。
そのすべてが「ことば」によってなされています。
認知することと思考することは、自分独自の「ことば」だけでも行うことが可能です。
しかし、表現することは自分の「ことば」だけではその本来の目的である人に理解してもらうことは不可能になります。
また、認知においても起っている現象(問題)を人と共有することがついて回ります。
共有するためには同じ「ことば」に同じ認識ができていることが前提になります。
より多くの人と共有する必要がある場合や、より多くに人に理解してもらう必要がある場合は、同じ「ことば」でも共通語として通用するものを選択することになります。
アウトプットとして、人に伝えて理解してもらうための表現をすることによって初めて、自分固有の「ことば」かどうかの確認ができることになります。
私たち学校教育のなかで試験として評価されてきたことは、教育として教え込まれてきた「ことば」たちがどれだけインプットされて記憶としてとどまっているかを比べられただけのことです。
その「ことば」たちを使って表現することは、ほとんど求められてきませんでした。
学校教育では知的活動のための表現の技術をほとんど身につけていないことになります。
すべての知的活動が「ことば」によって行われている以上、「ことば」を磨くことはそのまま知的活動の質を磨くことにつながります。
より多くの「ことば」を発信し、共有することによって「ことば」はどんどん磨かれていきます。
もっともっと「ことば」をやり取りして、個人特有の「ことば」に刺激を受けて、自分の「ことば」を磨いていきませんか。