2014年4月1日火曜日

「国語」の前にある「ことば」

学校教育における「国語」は義務教育である小学校に入ってから重点的に行われるとばかり思っていました。

日本語の基礎はひらがなですが、小学校入学時点で90%以上の児童がひらがなの基本47文字にすべてを読むことができている現実があります。

また、小学校1年生でひらがなの読み書きを教わるのは2ヶ月間しかなく、先生に対する指導では合計24時間出ひらがなの読み書きを終わらせるように指導がされています。

すでに習得しているから短い期間で済ませているのが、小学校の教える期間が短いから幼稚園で教えているのかはわかりませんが、これが現実となっています。



小学校国語科の教育指導要領では、低学年、中学年、高学年に分けて、「A.話すこと、聞くこと」「B.書くこと」「C.読むこと」を中心に置いています。

文字・言葉・文章として読んで理解することにその主眼が置かれており、文字・言葉を覚えて書けたうえで、書かれたものを理解することが求められいます。

この内容をよく見ていくと小学校4年生頃で、一通りの「国語」として基本である文字とその使い方が習得できることとなっています。

高学年では、さらなる語彙の強化と様々な文章の読解力を付けていく内容となっています。


一般的な日常言語として使える基準には小学校の4年生で達することになります。

その間に、文字の種類としてはひらがな、カタカナ、漢字、ローマ字までを学習しています。

小学校入学前には、きちんとした文字を書く機会はほとんどなかった子どもたちが、日本語という極めて複雑な言語をこれだけの期間の学校教育だけで身につけていくことが可能でしょうか?


小学校入学以降に「国語」として習っていく言語は、学習言語と呼ばれる一種の共通標準語です。

それ以降に、知識として学んでいくすべての教科書や資料がこの「国語」で書かれています。

「国語」は学校教育において学んでいくための学習言語なのです。

それぞれの地域や社会で使用されている日常言語とは異なるものです。


「国語」をはじめとする各教科の教科書や資料は、ほぼ日本全国統一の内容のものが使用されています。

しかし、それを教えている人はそれぞれの地域・社会で生活している人であり、それぞれの地域・社会での日常語を使用している人たちです。

「国語」の教科書は同じであっても、それを教える言葉は地域・社会の方言やアクセントのある日常語になっていることになります。

同じ教科書で同じ内容を「国語」として教わっていますが、その発音やアクセントはそれぞれの地域・社会のものが出ます。

それでも、全国統一的にすべての人が身につけていきますので、日本語のなかでの共通語として「国語」は需要なものとなっています。


「国語」は日本語ですが、日本語は「国語」だけではありません。

アイヌ語や琉球語、東北弁や各地の方言と同じように「国語」は日本語のほんの一部でしかありません。

国民に統一的な知識を身につけさせるために定められた、学習するための標準言語としての日本語が「国語」です。


学校教育として様々な知識を教え込んでいきますが、そのためには「国語」によって書かれた教科書が大きな柱となります。

そのために、学校教育の始まりである小学校の低学年から中学年にかけて、重点的に「国語」の指導が行われるわけです。

「国語」の読解ができなければ、さまざまな教科書の内容が理解できないことになってしまうのです。



私たちは、小学校に入って初めて、学習をするための言語としての「国語」という日本語を学ぶことになるのです。

そして、以降はこの「国語」を共通語としてコミュニケーションの中心に置くことになるのです。

では、それまでの「ことば」はいったい何なのでしょうか?

小学校の入学前の「国語」を学ぶ前の子どもたちも「ことば」を使ってコミュニケーションをしています。

この「ことば」はいったい何なのでしょうか。


これがおもに母親から子どもが受け継いだ伝承語である「母語」です。

地域・社会で日常生活を送っている母親が持っている日常語から受け継いだ言語です。

母親の言語そのものが一人ひとり異なりますので、当然受け継いだ言語も一人ひとり異なります。

双子であったとしても、受け継ぎ方は微妙に異なりますので、全く同じ「母語」とはなりません。


「母語」としての言語感覚と、「母語」を使用することができる知的機能が有るからこそ、「国語」があれほど短期間で習得できることになります。

それでも「国語」の習得に苦労した結果として、「国語」で書かれているのですが教科としての「国語」と表現が微妙に異なる、算数や理科の教科書の内容に戸惑いを見せる子どもは後を絶ちません。

特に教科としての特徴が鮮明になってくる高学年になってくると、その差が顕著になってきます。

算数が苦手な子は算数を教えても駄目です、国語をきちんと教えなさいと言われるのはこのことがあるからですね。


母親が日本語の地域・社会で生活をしており、日常語が日本語であれば母語も当然日本語となります。

生涯狭い地域・社会で生活を終わるのであれば「国語」は必要ないのかもしれません。

しかし、義務教育として国民の教育・知識レベルの向上を図り、それを経済・技術の発展につなげていこうとする国策においては、個人の活動範囲は一地域・社会では完結することは不可能です。

さらに、自国を飛び出して行くことも当たり前となっている今日では、自国内での共通言語・共通認識はより重要なものとなっています。


幸か不幸か、この「母語」はのちに書き換えることが不可能なうえ、思考するための唯一のツールとなっていきます。

「母語」を「国語」で強化しながらツールとしての力をよりつけていくことが基礎力となっていくのではないでしょうか。


母国語として言語を共有する同一国の人同士であっても、お互いが母語で話し合っては意味が通じない場合があります。

中国のように同じ中国語とは言っても、地域が違えば全く意味が通じない国もあります。


法律やルールはすべての人が理解してこそ初めてその効果が生まれるものです。

義務教育として「国語」を身につけさせ、さらにその「国語」を中心とした生活をせざるを得ない状況を作っていくことが、国家戦略の基盤作りです。

そこに教育として何を刷り込んでいくのか、何を身につけさせていくのかが国としての成熟度になっていくのではないでしょうか。

その割には、「国語」の前の「ことば」である「母語」に対してあまりにもずさんな対応しかされていない現状は改善されなければならないと思われます。

せめて「母語」というものの存在をもっと知らしめることが必要ではないでしょうか。



国籍を確認することよりも、その人の言語を確認することの方がより正確に個人を表している時代になりました。

母語は何語ですか? 
第一言語(学習言語)は何語ですか?  
第二言語は何語ですか?

国を超えた個人のカテゴライズのこんな方法はすでに始まっていたんですね。

そのうち聞かれますよ、「あなたの母語はなんですか?」






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