正解は必ず何処かにあるからです。
仮に、見つけることができなかったとしても、自分で何らかの答えを出すことは可能です。
その場合は、その答えが正解かどうかが分からないだけです。
正解を探すことができた時に、答え合わせができることになるだけです。
気づくことは自分でしかすることができません。
気づくべきものが何処かに存在しているわけではありませn。
何かをきっかけとして、自分の中に目覚めたものが気づきと言われます。
答え合わせをするにも、合わせるべき正解が存在していないのです。
人に答えを考えさせることにおいて、よく使われる手段が誘導です。
誘導する側が正解を持っており、簡単に見つけられるようにさまざまな形で導いていく方法です。
一番わかりやすい事例が、被疑者に他する取り調べでの自白誘導です。
警察側(誘導する側)には証拠(とされるもの)と自分たちの正解がそろっています。
そこに向かって様々なことで誘導していくのです。
しかし、誘導された自白は、冷静な環境では翻ることが多くあります。
導かれた正解には納得感がないのです。
発見に至ってい ないので、見つけた喜びが伴わないのです。
人を指導するときの大きなポイントですね。
正解を誘導してしまっては、本人にとっては自分のものとしての感覚がなくなってしまうのです。
そこが気づきとの大きな違いです。
気づきには正解がありませんので気づかせる側も、何に気付けばいいのかがわかりません。
気づきに至る過程が本人の納得感のあるものでなければ、本人自身が気づいていることにもわかりません。
何もないところで「自分の見えない欠点に気づきましょう。」と言ったところで「?」となってしまいます。
特に、誘導する側がある程度の気づいてほしい内容を持ってしまっていると、誘導が始まってしまいます。
そして、誘導側の納得できる範囲にまで本人からの話が引き出せると、「いい気づきですね。」となるわけですが本人は気づきとは思っていないことになります。
しかし、そのまま放っておいても気づくことはありません。
あるところまでの誘導が必要になります。
本人が自分で気づいたと思えるところまでの誘導にしなければなりません。
一人ひとりそのレベルは異なります。
ヒントや例を見せたりすることは、人によっては逆効果となることもあります。
一人ひとりと向き合って、心を開いて細やかなきっかけから気づいてもらえるように、どの程度まで誘導するのかを真剣に一言ずつやり取りしなければなりません。
誘導する側には必ず、ある種の到達イメージがありますのでどうしても過度の誘導をしがちになります。
すると本人の気づきが薄くなってしまうのです。
答えのないものを気づかせる、出てきたものが気付きであることを本人に気づかせる。
本当に難しいことです。
自分で正解を見つけ出してきたことを気づきだと思い込んでいるいる人がたくさんいます。
自分の言葉として表現できない人がたくさんいます。
自分のことは気づきにくいものです。
腹を割って話せる、忌憚のない会話のできる相手が必要になります。
隠している自分を少し見せることによって、人から見えている自分を少し知ることによって、自分に対して少し気づくことが出てくると言われています。
誘導にならない導きの表現も大きな力となるのではないかと思っています。