「君が代」を国家として選定したのは明治政府です。
明治2年(1869年)に薩摩藩の軍楽隊に対してイギリス公使館の音楽隊長より、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきだと進言されたことがきっかけだと言われています。
それを受けた当時の薩摩藩歩兵隊長の大山弥助(のちの大山巌)が愛唱歌である薩摩琵琶の「蓬莱山」の詞から採用されたと言われています。
「蓬莱山」は長い詞ですが、その中に「君が代」の和歌があることが確認できます。
君が代は 千代に八千代にさざれ石の 巌となりて苔のむすまで
この「君が代」がどうも謎だらけです。
その由来とヘブライ語で見たらどうなるかを確認してみたいと思います。
直接の引用先が薩摩琵琶の「蓬莱山」であることは分かりましたが、もともとは和歌として存在していたものです。
辿っていくと「古今和歌集」(巻七賀歌巻頭歌)に詠み人知らずとして以下の歌があります。
「わが君は、千代に八千代にさざれ石の巌(いわお)となりて苔のむすまで」
詠み人知らずとなっていますが、身分が低かったためにそのように扱われたのであって、朝廷に使えた木地師の石位左衛門(いしいざえもん)が詠んだものだと言われています。
素晴らしい材料としての木材を探して山を歩き回っていた時に、都では見かけぬ珍しいさざれ石が大きな岩になっていた景色を見て詠んだ歌であり、優れた歌として「古今和歌集」に採り上げられました。
石位左衛門は歌上手を認められ、石にちなんで藤原朝臣石位左衛門という名を授かりました。
このさざれ石のあった場所が、琵琶湖から見て伊吹山の裏側に当たる岐阜県揖斐郡の春日の地であり、そこにはさざれ石の碑があります。
「君が代」の原典は「古今和歌集」にあるということができます。
「古今和歌集」 → 「蓬莱山」 → 「君が代」 と言うことですね。
では、「蓬莱山」の詞を作ったのは誰でしょうか?
薩摩琵琶の詞ですので、当然薩摩の人ですね。島津忠良(日新斎)だと言われています。
戦国武将で有名な島津義久・義弘の祖父にあたる人です。
島津家はもともとは惟宗氏であり、惟宗氏のルーツはあの帰化人の秦氏です。
秦氏が原始キリスト教徒であったことを疑うことはできません。
薩摩藩島津家の紋所は「轡(くつわ)十文字」と呼ばれている有名なものです。
太陽と十字架を表したもので別名で島津十字とも呼ばれています。
どうしてもキリスト・聖書・ヘブライの影響を考えざるを得ません。
島津家はキリスト教の影響を大きく受けた大名です。
もう一ついきます。
「君が代」の作曲者です。
何度か曲は変更されていますが、最終的な形に編曲を完成させたのは宮内省雅楽課楽長の林広守だと言われています。
彼の素性をたどると、林家は元々飛鳥時代に活躍した秦河勝の三男の末裔であるとされ、 代々四天王寺に仕えて雅楽を演奏する家であった・・・となります。
技能集団であったとされる秦氏の中で音楽技能を専門とした一族であったと思われます
ここでも秦氏が登場します。
秦氏で有名なのが聖徳太子をバックアップした秦河勝です。
最近の研究では聖徳太子自体が架空の人物と言われており、聖徳太子=秦河勝の可能性が高いと言われています。
薩摩琵琶の「蓬莱山」の作詞者である島津忠良がなぜ、「古今和歌集」からわざわざ詠み人知らずの歌を持ってきたのか。
スサノオの歌やヤマトタケルの歌など、よりふさわしいと思われものはたくさんあります。
「古今和歌集」だけでも1,111首の歌がある中で、なぜ国歌として「君が代」でなければならなかったのでしょうか。
携わった人たちを見ただけでも、何かしらの意図を感じざるを得ないと思います。
次回は「君が代」の音からヘブライ語がどのように見えるのかを確認してみようと思います。
日本語の意味の中にも隠されているものがありそうです。
聖書の中に隠されていると言われているものは、基本は未来に対する預言ですね。
それが、二重三重の仕掛けによって隠されています。
「君が代」がそうなのかどうかは、あくまで推論です。
遊びの一種と言ってもいいかもしれません。
何しろ対象は「国歌」ですので、時代が違えば罪になることでもあります。
まずは、ヘブライ語に置き換えてみた後で何が見えてくるのか楽しみにしたいと思います。