日本の大きな特徴の一つに表現の豊かさがあります。
豊富な表現の源は、語彙の豊富さと表記文字の多さからきています。
ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットの4種類もの表記文字を持つ言語は、世界中で日本語だけです。
しかも、この4種類の文字が混在している文章を、普通の人が日常的に使いこなしているのです。
日本語は他の言語に比べて、基本的な言語についても身につけることが非常にたくさんあります。
そのために、言語の習得に他の言語よりも多くに時間を必要としています。
日本語の言語としての基礎が身に付くのが小学校中学年(10歳前後)と言われています。
教育指導要領もまた、そのように作られています。
その後も語彙の習得や文法的な知識を身につけていきますが、基本的な言語の習得についてはほぼ10歳頃で終わります。
そのあとは、語彙の増強と身につけた文字の正確さが試されていきます。
そして、身につけた言語での文章に対する読解力が求められていきます。
国語科としての学習はこれで終わりです。
古文や漢文に触れることはありますが、読解が中心となります。
したがって、国語科の試験で求められることは、文字(漢字)の書き取りと文章の読解が中心となり、これが大学まで続きます。
大学の一部の理科系では、入学試験に国語科がないところもあります。
大学の入学試験ですらがこのように書き取りと読解が中心ですので、そこまでの学校教育の内容がそのためのものになるのは当然のことだと思われます。
10歳前後で言語の基本を身につけた私たちは、その後はずっと書き取りと読解に明け暮れるのです。
他の国の言語習得は文字種や語彙の少なさなどから、6歳前後で基本的な習得を完了します。
したがって、
小学生の低学年のうちから、言語技術の習得のためのカリキュラムがあります。
日本語と大きく異なるのは、漢字がないことです。
漢字は現在の世界に存在する唯一の表意文字です。
声にして発するよりも、文字として書くことによってその意味がより鮮明になるものです。
したがって、表意文字を用いている言語の学習は、書き取りが中心にならざるを得ません。
文字を見て理解するという活動になっているからです。
ですから、
中国語も言語学習においては、書き取りが重視されていますね。
他の言語は、文字として書きだすことよりも、言葉としてはなすことによって理解を深める言語です。
使われている文字は表音文字であって、言葉としての発音をするための音を表す記号としての文字です。
文字そのものには何の意味もありません。
したがって、会話すること、議論すること、言葉で表現することによって理解をしていく言語です。
ほとんど書き取りの時間がありません。
文字は読めればいいのであって、ほとんど書く必要がないのです。
どうしても書く場合には、タイピストとして言葉を文字にする専門職が成り立っているのです。
日本語でも、漢字以外の文字はすべて表音文字です。
日常の使用言語の中に、表意文字も表音文字も混ざっている言語なのです。
使えるための基本言語を習得するだけでもどれだけ大変なことかお分かり頂けると思います。
そのために言語習得には時間がかかってしまいますし、書き取り・読解でまず理解することを身につけなければいけないのです。
日本の教育でひたすら書き取り・読解をやっているときに、他の言語話者の学校教育では言語を使った技術を学びます。
自分を表現することや、相手の意見・考えを聞き、自分との違いを明確にすること、理論だった話の仕方などを学びます。
その実践は、演説や議論やディベートで毎日のように繰り返されます。
言語そのものは違っていても、欧米の教育の原点にあるものは共通しています。
ほとんどの国が「クリティカル・シンキンク」を学校教育の重点においています。
彼我の違いを明確にすること、そのためには自分の考え・意見を論理立てて表現すること。
相手の論理の矛盾を把握して、より正しい論理である自分の意見を認めさせることが学校教育において身につける能力として重視されているのです。
専門的な分野の学習に進む前には、ほとんどの時間がこの能力の習得のために費やされるのです。
日本の学校教育において、一番遅れている部分がここだと思います。
基本言語の習得にあまりに時間がかかるため、その言語を使った言語本来の目的のための技術習得のための時間がないのです。
どんなに上の学校へ行っても、言語後術を習得するためのカリキュラムはありません。
むしろ、演劇や脚本の専門学校の方がカリキュラムを持っているかもしれません。
社会へ出てから一番ギャップが大きいのが、この分野です。
教師という一握りの大人と、生徒と言う同世代仲間の狭い世界の中でしか活動したことのない者たちが、年齢も役職も立場も異なる世界に放り込まれるわけです。
今までの会話技術では通用しないのです。
意見を述べる言語が今までとことなるのです。
それまでと同じことを表現するのに、同じ表現方法ではいけないのです。
学校と家庭という狭い世界で通用していた表現方法(言語)では、生きていけないのです。
学生が社会へ出て最初につまずくのが、周りとのコミュニケーションです。
学生の時の環境に近い状態を求めるから大企業になるのです。
同期入社が何百人・何千人もいて、細分化された部署には同世代もたくさんいる、そしてそこの部門長がトップとしているわけです。
それより上は雲の上です。
自分が昇って行かない限り見えなくていい世界です。
学校のクラスに似ていませんか?
中小企業ではこうはいきません。
人がすくないので、年齢が飛んでいます。
一人でいろいろなことをやらなければいけないので、部門も少なければ話す人も増えます。
大企業で上司の顔色をうかがっていれば生きていける世界とは雲泥の差です。
この大企業で育った、生き抜いてきた人たちが、定年後・早期退社後の社会で苦しんでいます。
地域でのコミュニケーションができないのです。
文化の違う、年齢の違う人たちの中に、溶け込めないのです。
言語技術の基本は「聞くこと・話すこと」です。
その先に「表現すること」があります。
小学校の国語科の教育指導要領にも、「書くこと」「読むこと」と並んで最初に挙げられている項目です。
しかし、そのためのカリキュラムはお粗末だと言えるでしょう。
基本言語の習得がほぼ終わった、10歳以降の小学校高学年から中学校がそのための最適期間なのです。
漫画を描き始めたり、詩を書き始めたり、曲を作り始めたり、日記を書き始めたり、交換日記や文通を始めたりがみんなこのころなのです。
表現を磨きたいサインは出ているのです。
言葉と言う道具は持ちましたが、使い方がわからいのがこの時期です。
使い方を間違えると「いじめ」になりますが、使っている本人はそうとは気づきません。
先生たちは枠にはめることが精いっぱいで、言語技術のことなんかに気づきません。
学生生活通じて楽なコミュニケーションを身につけた彼らが、一番抵抗少なく対応できる世界が教育の世界です。
彼ら自身が言語技術の必要性を感じていないのです。
こうして考えてみると、学校教育で言語技術を教えることはまず不可能ですね。
その必要性を感じる可能性が学校教育そのものにないのですから。
これこそが社会で生きていくための一番基本的な能力だと思うのですが。