どうも私たちは自分自身が曖昧な存在であるにもかかわらず、曖昧な状態が嫌いなようです。
何とはなしに落ち着かない状況になるのでしょうか、大概のことには白黒をつけたがります。
しかし、
世の中に存在していることのほとんどは曖昧なものです。
白黒がハッキリつけられることはほとんどないと思った方いいと思います。
そもそも白黒をつける基準そのものが、立場や個人によって異なってくるわけですから、固定的な白黒は存在しないことになります。
統一的な見解としてどうしても白黒をはっきりさせる必要がある場合には、そのための基準を共有できないと不可能です。
そのための基準の最たるものが法律であるということができるでしょう。
その法律に対しても判事によっては解釈が異なるという場合も出てきます。
特に、法律においては行為は対象となりますが、動機は法律の対象とはなりません。
誰かを殺すつもりで、銃刀法違反にならないナイフを持ち歩いていても法律には触れません。
躓いた拍子に誰かにぶつかってけがをさせてしまえば、法律に触れます。
ただし、その行為が法律に触れるのかどうかを判断するのは、法律に照らし合わせて判事が行うことです。
私たち個人ができるわけではありません。
いま、個人ができるわけはありませんと言いましたが、本当でしょうか。
ある行為が法律に触れるのかどうかの判断は、私たち個人ではできないのでしょうか?
法律は公開されています。
その法律を解釈するための文献もたくさん公開されています。
判例も公開されています。
個人として法律を理解することは可能です。
したがって、その行為が法律に触れるかどうかの判断は、個人であっても可能なのです。
では、
判事が裁判において行う判断と、私たちが個人で行う判断の違いはどこにあるのでしょうか?
それは、
裁判において判事が行う判断が、法律によって定められた手続きに基づいて行われる行為であり、その判断結果が法律によって拘束力・実行力を持つからです。
何かを理解して判断する行為は誰でもが自由にできることです。
しかし、
その結果を他人に対して影響を及ぼそうとする場合には、その人が同意をしているルールが必要になります。
法律は国会議員という個人の代表者が作成して合意をしたものです。
会社の規則は従業員が合意をしたものです。
罰則の有無にかかわらず、そこにはルールが存在します。
普段の私たちの活動において、法律やルールはいたるところで存在しています。
知らない間に触れていることもあると思います。
法律の基本は個人の理解や思考には及びません。
アメリカの好きなところの一つに思考を規制できないという明確な連邦法があります。
州法では政府の決定に反対する行動そのもに対して、有罪を規定する場合もあります。
9.11のテロへの対抗としての軍事行動に国旗を焼くという行為で反対を示した人がいます。
州の裁判所では有罪を言い渡されましたが、連邦裁判所では無罪です。
国がどんな状況にあろうとも、たとえ戦争状態にあろうとも、個人の思想を規制することはできないというものが明確にあります。
自分の所有している国旗を焼くだけで、人に迷惑をかける行為になっていなければ、国の決定に反対しようとも絶対に罪には問われないのです。
連邦裁判では必ず無罪になります。
自分で理解することと、人に理解してもらうことは全く別のことです。
自分で理解し判断したことで、人に動いてもらいためには、法律やルールといった強制力がない限り、相手が動いてくれるだけの理解をしてもらわなければいけません。
理解できてていることと行動できることも、全く別のことです。
人に行動してもらうためには全く別のことを4段階経なければならないのです。
1.自分が理解し判断できること。
2.自分の理解・判断を相手に伝えること。
3.相手に自分の理解・判断を理解してもらうこと。
4.相手に相手の理解・判断にもとづいて行動してもらうこと。
これらの4つはそれぞれ全く別のことです。
全く別の能力が必要になるのです。
まず、2番が正確にできません。
更に3番が正確に確認できません。
1番は自分の中で起きていることであり、相手は関係ありません。
それと同様に、4番は相手の中で起きていることであり、本来自分は関係ないのです。
それでも様々な影響力を駆使して、4番に強制力を持とうとします。
相手を動かすための個別ルールを設定しようとします。
相手に気づかれないようにルールを設定している場合もあります。
本来の姿はどこにあるのでしょうか?
相手に理解してもらうことの面倒を避けて、個別のルールの設定に走っていませんか?
動いてくれた人とともに、結果の喜びを分かち合えていますか?
1から4の中で自分でコントロールできるのは1と2だけです。
ただし、3については確認することで2を調整することができます。
大切なのは、2と3です。
伝えるという行為が入る以上、自分の理解と相手の理解は必ず異なっていると考えるべきでしょう。
抽象的な表現では同じ理解だと勘違いするかもしれません。
違う理解だからいいのです。
人の理解を押し付けられては、行動には移せません。
自分の理解だから行動に移せるのです。
自分の理解していることと、相手が理解してしているが違って当たり前だということをつい忘れてしまいます。
自分が理解していることと、相手に理解してもらうことは全く別のことであることを忘れないようにしたいですね。