言語には二つの役割があります。
ひとつは思考するための唯一の手段としての役割です。
人は言語(言葉)で思考します。
思考はその人が持っている言語としての限界を超えることはありません。
言語の限界が、思考の限界なのです。
もうひとつは相互理解(コミュニケーション)のための手段としての役割です。
相互理解のためには言語だけでなく、音楽や絵画、動作などもありますが、その中心は言語です。
話す言葉も書く言葉(文字)もともに重要な相互理解のための手段です。
さて、では人はどういうときに言語を発するのでしょうか?
話し言葉でも、書き言葉(文字)でも構いません。
一体、どうして言語で発信するのでしょうか。
一人で思考しているときでも、何かを書き出してみたり、独り言のように何かを呟いたりすることは
ありますね。
無意識下での行動は別にして、何かの目的以て言語を発信してるはずだと考えられます。
私は、これを「欲求を満たしたいため」に発信しているのではないかと考えています。
欲求という言葉が出てくるたびにお目に掛かるのが下記のマズローの図です。
使かっている言葉の微妙な違いあっても意味するところはどれも同じです。
現時点で何の欲求もなければ、人は言語を発する必要はありません。
欲求ががないということと満足であることとは異なります。
満足ではなくても諦めたうえでの、あるいは絶望から来た欲求の無い状態もあり得ます。
欲求の少ない者は、発信する言語は少なくなります。
欲求のない者は、言語を発しなくなります。
欲求の多い者ほど、発信する言語が多くなることになります。
マズローの欲求は段階とかステップではありません。
同時に複数の欲求が存在している場合がほとんどです。
そしてその都度、その中の一番下位の欲求に突き動かされるのです。
どんなに素晴らしい議論をしている最中でも、生命の危険があればそちらを優先します。
自己実現の行動中であっても、尿意があればそちらが優先されます。
命の危険が迫った時には欲求は生まれていません。
命の危険が迫ったと知って、助かりたいと思った時に初めて欲求が生まれます。
その時に初めて言語は発せられます。
他人に事故や危険が迫った時に思わず声が出るときがあります。
これも、人が傷ついたり、怪我したりするところを見たくないという欲求がなせる発信です。
人によっては、そういう場面を見てみたいという欲求から発せられることもあるかもしれません。
または、人を助けなければいけないという教えを叩き込まれていることもあります。
教えを叩き込まれただけでは、発信しません。
その教えを守りたい、従いたいという欲求があった場合に言語が発せられるものと思われます。
「欲求を満たしたいため」に発信はしますが、満たされるかどうかは別問題です。
また、満たしたいと思う欲求の強さも様々です。
楽しい時間を過ごすために、会話を楽しみたいと思う欲求による発信と、自分の命運がかかってお
り絶対に契約したいと思っている欲求による発信は全く異なったものとなるでしょう。
このことは、思考についてもいえることです。
頭の中だけの言語で行っていた思考に対して、整理をしたいという欲求が発生し、それを満たした
いと思った時に、紙に書き始めたり、独り言が始まったりするものと思われます。
現実にしなければいけないことやルールと、欲求とは異なります。
1時間という時間枠でのプレゼンがあった場合、1時間で終わらせなければいけないことと欲求と
は異なります。
1時間という枠があるので、それで終わらせたいとすることが欲求です。
この欲求を満たしたければ、それに合わせた言語の発信になります。
1時間という枠よりも、内容をしっかり伝えてわかってもらいたいという欲求が強ければ、さらにその
欲求を満たしたいとなれば、そのような言語の発信になります。
通常は両方の欲求を満たしたいということで、その場で揺れ動くことになります。
たった一つの欲求を満たしたくて発信することもあれば、複合する欲求を満たしたくて発信する場
合もあります。
発信している最中で、満たしたい欲求が変わることもあります。
いま、発信している自分は何の欲求を満たしたくて発信しているのかを掴むことが大切になりま
す。
発信している途中であっても、欲求は湧き起ってきます。
特に下位の欲求は、我慢しにくくすぐに解消したくなるものです。
本来の、一番欲しいものはなんであったのかを確認しながら発信することが大切です。
そのために発信しているのですから。