2013年10月22日火曜日

思考の限界(「現代やまとことば」のすすめ)

日本語ほど多様な表現が可能な言語はほとんどないことは、多くの人が経験からも感じていることではないでしょうか。

日本語の特徴の一つであることは間違いないと思いますが、これが日本語を母語とする人にとって単純に長所とばかりは言えないところがあります。

同じいコトやモノに対しての表現がたくさんありすぎて、概要では共通していても細部になると違っている場合があります。
 


総論賛成、各論反対が至る所で見受けられるのは、言語の問題も含んでいるのかもしれないですね。

全く同じモノを見て、何人かでそのモノを表現しても、全く同じ表現になることはありません。


見たモノを精確(精密かつ正確)に表現するという活動には、三段階の活動があると言われています。

まずは対象を認知することです。
これには五感が感知器として機能します。

この感知の時点で脳がその中枢として機能しています。

大きな基本的な機能としては同じであるとしても、それぞれの器官の感じ方は個人によって異なります。

 

更に脳の判断基準である「快か不快か」によって、「不快」な対象に対しては感知活動そのものが制限されることがあります。

反対に「快」の対象については誇張されることがあります。


脳の「快か不快か」の判断は、同じ対象に対しても経験によって変化します。

少し前は食わず嫌い(不快)だったものが、食べてみたら美味しいくて好き(快)になるようなことは頻繁に起きています。

同じ温度あっても快適と感じたり暑いと感じたりするのは、瞬間でも変化しますよね。

したがって既に認知する時点で、感覚や脳の判断で大きな個人差が発生しています。


次の段階は条件反射や本能的な反応以外の場合においては、感覚として認知したものを記憶として取り込みます。

この時に言語に置き換えられることになります。

絵や図形は言語がイメージ化されたモノであって、言語に置き換えられないモノはイメージ化できないようです。

抽象画が言葉で表現できないとの同じことです。

この時には、自分の持っている言語で置き換えられます。


この中枢も脳が司っていますので、当然「快か不快か」による言語選択が行われています。

最近はやりのある言葉が「快」であるかもれませんし、難しい専門用語が「快」であるかもしれません。

この時、記憶された自分の言葉には、人にはわからない略語や自分だけの言葉が含まれていることもあります。

個人差のあった認知が、記憶においてさらに個人差が大きくなることになります。


三段階目は表現することです。

目的は精確に表現することですので、記憶された自分の言葉でそのまま表現するわけにはいきません。

自分の持っている言葉の中から精確に表現するための言葉を選ばなければいけません。

当然のことながら、ことばの順番や強弱までが考慮されます。

もちろんここでも脳による「快か不快か」の選択があるわけですね。


「快か不快か」は必ずどちらかになるわけではありません。

ほとんどの場合はどっちつかずで、そのまま通過するようです。

特に瞬時の判断においては、刷り込みや経験によってどちらかに偏っている場合に起こることのようです。



一般的には、記憶するところから表現する直前のところまでを通して、思考と呼んでいるようです。

ですから、当然のようにその人の言語の限界が思考の限界になります。

表現の限界が思考の限界になります。


こうなると、同じモノに対しての認知から記憶から表現まで、人によってまるで違うことになります。

同じ日本語使いであっても、実際に個人が持っている日本語がかなり違う可能性もありますね。

同じ言葉を使っても、個人の言葉にとっては内容が違っていることもたくさんありますね。


一人ずつ、すべて言語がちがうと考えたほうがよさそうですね。

だから、多様な思考があるんですね。

人が表現したものの中に自分と違うものが沢山あるんですね。

違うことが当たり前なんですね。

だから人の意見が大切なんですね。

人と会話することが、意見を聞くことが大切なんですね。


一番共通性が高い言語が母語だと思います。

物心つく前に経験の少ないときに、母から伝えられた一番基本的な言語です。

更には、経験の少ないときに、共通の学習言語としてほとんど無意識のうちに身につけた「ひらがな」言語があります。

そのひらがな言語に表意文字として漢字を与えた訓読みがあります。

私は、これらを総称して「現代やまとことば」と呼んでいます。


自分の言葉はとても大切なものです。

言葉や言葉の使い方の独自性が、思考の独自性を生み出します。

既に皆が持っているものです。


しかし、表現する目的は相手に分かってもらうこと理解してもらうことのはずです。

そのためには自分の言葉と一緒に「現代やまとことば」を使ってみませんか。

「現代やまとことば」を自分の言葉として使いこなせたら、きっと優しくて分かりやすい表現が自然にできるようになるのではないでしょうか。