2013年10月24日木曜日

モノを見ること(認知)の限界

客観性という言葉が気になりました。

主観に対応する言葉が客観ですね。

客観性が必要な場面というのは、人と何かを共有しようとする時だと思われます。

自分一人で考えたり処理したりしている場面においては客観性は必要ありません。



一番多くの情報は視覚から入ってきます。

視覚はフローの映像として感覚されるので連続する変化がそのまま流れているだけです。

視覚で感じているだけでは情報となっていません。


この映像の瞬間的な一部が切り取られ、記憶されたときに初めて情報となります。

人はモノを認識するときに言葉で認識します。

したがって言葉で表現できないものは認識できないことになります。

認識た映像の中で記憶の対象とするモノには言葉としての表現が与えられます。


たとえば、ルンバという自動掃除機があります。

ルンバと対象物が同じものとして結びつく人は、ルンバとして記憶することができます。

ルンバという言葉を持たない人は、丸い自動掃除機・・・のような表現で記憶することになります。

対象物を特定する言葉は一人ずつ異なる可能性があります。


多くの人が携わって製造するモノがあります。

材料や加工の仕方や工程は、かかわる人が正確に共有していなければ完成しません。

すべて言葉が必要になります。

対象物を特定するために品番やパーツ番号という言葉が指定されます。

一般には何のことだかわからなくても、製造する人たちが正確に理解するための言葉です。

いわゆる専門用語です。


ルンバという言葉の指定するモノや、品番という言葉の指定するモノがわからない人には何のこと

だかわかりません。

つまり、モノを見る(認知すること)にも言葉が必要なのです。



その人の持っている言葉の限界が、モノを見て認知できる限界になるのです。

テレビという言葉を持たない人には、これを認知するためにテレビという言葉以外で表現すること

になります。

電気を使って、電波を受信し、映像として画面に映し出す・・・ のような機能や形状を把握して認知

することになります。

当然、簡潔な言葉にはならず、すべての機能や形状を表現しきれるものではありません。


もっとも正確に対象を共有するためには、対象を固有化する表現を見つけることです。

一つの例としては、メーカー名、品名、品番、シリアル番号、ここまで特定できたら固有化できるの

ではないでしょうか。

仮に、まったく見たことも知らない対象物であっても、調べて確認して行き着くことができます。

客観性というのはこのようなことではないでしょうか。



通常の私たちの会話は、個人として持っている言葉のぶつけ合いです。

表現している言葉は同じであっても、その指示しているところは必ずしも完全に一致しているとは限

りません。

抽象的な言葉については、さらにその傾向が強くなります。


「役不足」という言葉があります。

その役割がその人に取っては荷が重すぎると定義している人と、その人のチカラにはその役割は

軽すぎると定義している人がいます。

同じ言葉で全く反対の定義がされています。

どちらが正しいということではありません、これが実際に起きていることです。

前後の流れから気付けば修正も可能でしょうが、そうでなければそれぞれが全く反対の理解をして

しまうことになります。


言葉の限界が影響するのは表現するときだけではありません。

モノを見ること、認知すること自体がその人の持っている言葉によって制限を受けているのです。

同じモノを見たときの、他の人の認知の仕方を知ることは自分の言葉を増やすことや、モノを見る

観点などについてとても参考になります。


人と話したり、本を読んだりすることはその人の持っている言葉と見方に触れるいい機会です。

誰がどんな対象に対して使っている言葉であるかを確認しておくことは大切ですね。

自分の言葉としてその人と同じ定義ができてしまえば、少なくともその人との間では、その言葉に

ついては客観性をもつことになります。



普段の会話をしたり、接触している人たちが限定されてしまうと、自分の言葉も限定されてきます。

学校、会社、団体だけでの活動ですと、使える言葉がどんどん減っていきます。

同じような環境で、同じような言葉を使っている人たち同士は、伝え方や表現を考えなくても簡単に

共有できます。

共有する手間、客観化の手間を惜しむと、参加できるコミュニティが減っていきます。


モノ見ること、認知すること自体に個人としてのバイアスがかかっていることを知っておくと、人との

会話に幅ができます。

他の人が同じモノを、どう見ているのか、どう捕えているのか、どう表現するのか、ということを聞き

たくなるからです。

これを聞かれると、人は自分に興味を持ってくれていると思って、一生懸命話してくれますよ。


共感するためではなく、説得するためではなく、違いを共有するための話しができると面白いです。

自分の言葉とか客観性とか言っても、脳の「快か不快か」の判断は常に行われていますので、そ

の影響は受け続けています。

それがなくなってしまったら、個性がなくなってしまうのでしょうね。