その最大の功績は「ひらがな」の文学的価値の普及と定着にあると思います。
紀貫之は実在の人物と思われますが、その生年も没年も定かではありません。
貞観8年(866年)~貞観14年(872年)ころに生まれたのではないかとされていますが、確認できる資料はありません。
没年は天慶8年(945年)ころとされていますので、73歳から79歳まで生きたことになります。
いくらなんでも生きすぎだと思います。
醍醐天皇、朱雀天皇の2代に仕えたとされています。
905年、醍醐天皇代に紀友則(貫之の従弟)・壬生忠岑・凡河内躬恒らとともに「古今和歌集」の選者として選ばれており、その「古今和歌集」が完成したのが930年と言われています。
「古今和歌集」の仮名による序文である「仮名序」を執筆したと言われています。
漢文による序文である「真名序」を執筆したのは紀淑望(きのよしもち)であり、「真名序」「仮名序」の対比によって当時の仮名の完成度を確認することができます。
万葉集(760年以降ころで完成は806年とも言われる)のときに表された仮名(万葉仮名)は、見た目は完全に漢字であり、主にその音読みを利用してそれまで口語であった歌の「やまとことば」を表記したものです。
「古今和歌集」の「仮名序」を見ることによって、万葉集以降の仮名の変遷を想像することが可能となります。
文字によってはかなり崩れてきており、ひらがなの一歩手前のものもあったと思われます。
「古今集」は数々のことばの謎に隠された史実が込められていると言われています。
それもあって皇族の中には「古今伝授」として、口頭で古今集の読み方を秘伝的に伝えていくことが行なわれました。
今でも数多くの学者の研究対象となっています。
承平5年(935年)に土佐の任地から都へ戻った記録を、のちにひらがなを主体として日記風に散文として表したのが「土佐日記」です。
当時は男しか日記は書きませんでした、それも漢文です。
女が使用する文字としての仮名(この時点ではほとんど「ひらがな」と呼んでいいものだったと思われます)を使用して、女の文章として書いたものです。
ひらがな文学の原点と言っていいでしょう。
紀貫之は筆も達者だったようです。
そのために貫之の本は文字の手習本としての価値もあったようです。
そのために写本が多く存在し、原本がなくともその姿を想像することができるようになりました。
このことも貫之の才能の一部を示すものではないでしょうか。
これを機として、日記文学は女流文学としても定着し「蜻蛉日記」以降の日記文学を生み出します。
また、女こどもの日常言葉であった「ひらがな」が、文学的な位置を確保して、女流文学としての物語文学の最盛期へと導きます。
「やまとことば」に文字としての表記を与えたのは、万葉仮名と言えるでしょうが、それだけでは仮名の位置づけは今の様にはならなかったでしょう。
紀貫之という天才が、仮名の使い方を示し、その可能性を広げたことによって、「古代やまとことば」を文字として表現する方法が確立され、記録されるようになったのだと思います。
その後の「源氏物語」のなかでも、ひらがなの使い方についての試行錯誤の跡は見て取ることができます。
同じような表現の内容でも言葉の使い方を模索しているところがあるようです。
しかし、紀貫之によって開かれた道は、その後は留まるところを知らないないかのように散文や紀行文・随筆として発展を続けます。
漢文を理解するための読みとしての訓読みとともに、「ひらがな」は広がっていきました。
日本語の原点は口語としての「やまとことば」、文字としての「ひらがな」にあります。
そこはタイムカプセルのように2000年にわたる歴史が刻まれています。
当時の感性を感じることができるのも「ひらがな」のおかげですね。
紀貫之の当時も、役人としての公用語は漢語です。
あえて、ランクが低いとされる女こどもが用いる言葉を発展させたモチベーションはどこにあったのでしょうか。
歌は音としては「やまとことば」です。
それを表記さえできればよかったはずです。
「ひらがな」を文学にまで高め、現代日本語の標準形である「漢字かな交じり」の礎を築いた天才の功績を改めて考えてみたいと思います。