2013年9月20日金曜日

自分の言葉で考えてみよう

情報過多の時代と言われて久しくなりました。

いろいろな情報に振り回されて、情報を取り込むだけでも時間が足りないくらいになっています。

そもそも自分が何の目的で、どんな情報をインプットしようとしているのかさえ分からなくなっている

のではないでしょうか。


しかもインプットされた情報のほとんどは、媒体によって脚色された情報であり、事実がどこにある

のかどこまでが信じられるのか判断できないものばかりです。

一番多いものが、事実ではあるがその一部のみを取り上げて、批判や賞賛をしていることだと思い

ます。

発言や講演内容の一部を切り取って、揚げ足を取るかのように評論する媒体には触れたくもない

ものだと感じます。

これによって世論が動かされているのかと思うと情けなくなります。



仲間のすすめもあって、また自分でも思うところがあって、3カ月ほど前から、新聞を読むことを止

めました。

テレビのニュース・報道・情報番組を見ることも止めました。

テレビではドラマくらいしか見ていません。

メルマガもすべて停止しました。

ビジネスに関する書籍も読むことを止めました。

その代り、新たなビジネスの核とする「日本語のチカラ」に関してのアウトプットに専念することにし

ました。


始めは新聞を断ち切ることに大きな不安がありました。

サラリーマン時代は新聞に目を通しておくことが、最低限の共通認識であり、今朝の新聞の話題に

ついていけないととんでもない劣等感を味わったものでした。

内容はともかく、新聞に掲載されていたことを知っていることが重要でした。

図らずもサラリーマンと決別して1年以上たちましたが、実際に新聞を一切読まなくなって3か月以

上を経過しています。

何にも困らないのです。

自分でも驚いています。

普段の生活だけでなく、自分が収入を得ている仕事においても、これから展開していきたい事業に

ついてもその周辺情報についても全く困らないのです。



新聞とテレビを止めた分の時間(実際にはそれ以上かもしれません)はSNSでの発信に費やして

います。

すると不思議なことに、欲しいときに欲しい情報が正確に入ってくるのです。

そこで知り合って、リアルに合える人たちから驚くほどのヒントがいただけるのです。

しかも、知り合う人たちがそれぞれの専門性と実績を持ちながら、新しいことに取り組んでいる人た

ちばかりなのです。


そこで学んだことがあります。

氾濫する不確実な情報に左右されないということです。

情報量は少なくとも、自分の考えで世の中の先行きを予測し、自分の考えに基づいて判断すること

を日々繰り返していることです。


何かを考えるときは元になる情報が必要です。

いろいろなことを一度に考えなければならない時は、自分以外の情報に頼らざるを得ません。

ところが人が一度に考えられることは、一つのことだけです。

実際にやってみるとよくわかりますが、二つ以上のことを同時に考えることは不可能です。


考えることは自分のやりたいことの方向性と検証です。

自分の考えに従わないと後悔します。


怖いのは自分の考えで起こした行動で失敗することです。

失敗するとはどういうことでしょうか、成功するとはどういうことでしょうか?

日々失敗を繰り返し、修正してより良い成果を出そうとすることが生きているということではないで

しょうか。

そのための信頼できる情報は、自分のなかで納得したものしかないのではないでしょうか。


結果として、自分の言葉ですべてを定義し直すことが、自然と行われると思います。

極めてシンプルに定義されてくるのではないでしょうか。

自分だけの言葉や意味付けがなされてくるのではないでしょうか。


大切なのは発信すること、アウトプットです。

自分の考えや言葉を発信することによって初めて、意見がもらえます。

行動することによって初めて、間違いや失敗がわかります。

より早くこれに気付いたほうが、より早い修正ができます。


情報過多の時代に自らの考えや意見を発信するには、自分の言葉を持たなければいけないと思

います。

伝え方を選ばなければいけないと思います。

一人ひとりの日本語をもっと磨かなければいけないと思います。

そのために利用するSNSとそこから広がる仲間は、ものすごい力になります。



表現の曖昧さは、思考の曖昧さの現れです。

だらだらした長い表現は、論理性の欠如の現れです。

人は言語で思考し、言語で表現します。

借り物ではない、自分の言葉をしっかりと持ちたいですね。