2013年9月14日土曜日

「ひらがな」の位置づけ(3.日本語の原点)

ひらがなは古代よりより継承されてきた話し言葉である「やまとことば」に、漢語の音を当てたものを崩した文字(草体化)です。

万葉集(8世紀半ば)に見られる漢字の音の当て字(借字)に始まって、8世紀末の正倉院文書にはある程度崩された(草体化した)ものを見ることができます。

9世紀の地方の出土品の中には草体化した文字を見て取ることができ、地方へ赴任した官人などによって広がっていったことが伺われます。



かなり省略が進み草書化された仮名を草仮名ということもありますが、平仮名への過渡期だと思われます。

上の表の赤い字が草仮名ですね。

そして「古今和歌集」「土佐日記」へとつながっていき、このころには仮名の文字はほぼ現代と同じところまで省略化されていたと思われます。

やがて中国との交易が断たれると、国内での文化が醸成され(国風文化)、女性や子供を中心とした親しみやすい文学としての平仮名が広まります。

さらに「蜻蛉日記」を初めてする日記文学が女官によって広がると、平仮名を用いた物語文学へとつながっていきます。


「伊勢物語」「源氏物語」「今昔物語」「平家物語」「徒然草」「方丈記」「奥の細道」「雨月物語」などはすべて漢字かな交じり文で書かれています。

初期の物語においては仮名の使い方に模索した跡が見られ、同じような内容の個所でも言葉の使い方が異なっているところがあります。


このころの平仮名位置づけは

男=公式=漢文、女=日常=仮名、という使い分けがなされており、子供のうちは仮名で遊びますが、男は漢文を使うことが男としての証でもありました。

それでも歌を作るときや日常の会話は「やまとことば」ですので、書き文字や記録のみ漢文を用いたことになります。

このことは後世しばらく続きます。


江戸時代であっても、武士の手紙や記録は漢文であり、町人の手習や瓦版は「いろは」です。

浄瑠璃本は独特の書体の(太字のくねくねした字体)漢字かな交じり文で書かれており、大衆文学であったことが伺えます。


この平仮名の位置づけが、現代でも引き継がれています。

特に公式文書を残す必要がある機関では漢文が残っているところがあります。
皇室もそうですね。

そこまで行かなくとも「ひらがな」をさげすむ傾向が強いのが国の機関です。
漢文調の文を好み、漢字で書ける言葉はすべて漢字にしないと蔑まれることすらあります。

内容に情緒性を必要としない、正確さを求めた、申請や記録については漢字による表現が圧倒的に適しています。

したがって、定型的な処理や業務については間違いや勘違いを防ぐためにも、漢字を使用することが多くなるのです。

書き表された記録から違ったことを読み取られては困るわけですから、正確さが第一の目的になります。

当然、普段から漢字ばかりに触れて業務をしているわけですから、話し言葉にも漢字言葉が多くなっていまうのは仕方がないことですね。



正確さの求められている仕事をしている人ほど、漢字や専門用語の使用頻度が高くなります。

当然仕事上の会話は、漢字と専門用語の嵐になります。
普段の会話にも影響でることは間違いないですよね。


このような人たちは、自分で意識して一般的な会話をする機会を作らないと、本来の一番大切な日本語である「ひらがな」(=やまとことば)から、どんどん遠ざかることになります。

男にとっては仕事で認められ、成果を上げることが最大の喜びです。

そこに集中すると、日本人の根源である「やまとことば」の精神性が失われるのですね。


生まれた子供が最初に習得する言語は、母親から伝承される「母語」です。

女性は絶対的な本能として、子共に伝えるべき「母語」を守るようにできていると思われます。

どんなに仕事のできる女性であっても、どんなに仕事上の専門的な会話の場であっても、必ず子供を育てることにつながる感性の発現に触れることが有ります。

専門バカになっている我々にとっては、そのことがかえって新鮮であり、新たな発想のきっかけとなることが少なくありません。

私の記憶の限りでは、その時のことばが「ひらがな」であることが圧倒的だと思います。

もともと中世の女性たちが平仮名を使った文学を育て広げたわけですから、女性にかなうわけがなかったんですね。

特に男性こそ、自ら「ひらがな」を使う努力が必要だと思われます。

日本人の日本語の良さを特徴を失いたくないですね。



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