2013年9月13日金曜日

「ひらがな」の位置づけ(2.ひらがな文の隆盛)

紀貫之が古今和歌集で「真名序」と「仮名序」を編纂したことによって、当時の仮名の完成度を見ることができました。

「仮名序」の文もすべて仮名となっているわけではなく、漢文読みの文字が含まれています。
また「真名序」と比較してみないと、かなとして使っている漢字なのかどうか分からないところも多々あるようです。

いづれにしても、この試みによって初めて仮名が漢文と同じテーブルに乗ったわけです。

 

そして最初の仮名物語であるとされる「竹取物語」があらわれます。

一部では紀貫之の作とする場合もあるようですが、確認はされていません。

のちの書物によれば、紀貫之の手による「竹取物語」の書物があったことは間違いないようですが、それをもって原作者ということはできないと思います。

原作は漢文で書かれたものがあって、のちに仮名に書き改められたとするのが定説のようです。

紀貫之のころに平仮名の崩し文字に書き改められたようです。
のちの作品の多くに「最初の物語」として取り上げられています。


ひらがなの普及において紀貫之の「土佐日記」を挙げないわけにはいかないでしょう。

日記はそれまでは男性の文化であり、漢文で書かれるのが定型でした。
私的な記録であって、文学的な意味合いはほとんどありませんでした。

また、仮名は女性や子供が使うものであり、漢文よりも一段低い文字という位置づけもありました。
この仮名の位置づけはこの後もずっとついて回ります。

したがって紀貫之は「男が書く日記というものを、女の私も書いてみよう」として女の振りをして仮名による日記を書き表したのです。



日記と言っても正確なものではなく、おそらくは書き溜めておいた日記の内容を、後日に虚構を交えて仮名で表したものとされています。

紀貫之は歌人でもあったため、歌はすべて仮名で書かれたことから仮名にはなじんでいたものと思われます。

また、僥倖にも「土佐日記」の原本は15世紀くらいまで存在しており、そのために写本も数多く出ていて、すでにない原本を推察するのに資料がたくさんあることもその価値を高めています。


「土佐日記」が契機となって「蜻蛉日記」などの日記文学が隆盛を迎えます。
そしてひらがな文学の担い手としての女流物語文学へとつながっていきます。


崩し仮名を使用するようになって、漢文とは異なった表記としてのひらがなの柔らかさを生かした表現がされるようになっていきます。

担い手を見ればわかるように、女性独特の感情表現や風景描写には好んで用いられるようになります。

それまでは女性は物を書くという文化はなかったと思われます。
書いても見る人がいないからです。


中央の貴族や高官がこぞって文学的な素養のある女官をもとめ、その作品を競い合わせるようになります。

漢文とは異なった、女性と子供が使う言葉としてひらがなが広く使われるようになります。

みんなにとって分り易い物語として平仮名の崩し文字を使った文学がひろまりました。



文化の基本は母性によって継承されます。

生まれた子供は、母性によって生きていく基礎能力を与えられます。

まさしく母語の継承がそうですね。


母性と子供は、子供の自立が見かけられるようになるまでは一体です。

子供が自立をする感覚を持ち始めた時に、より広い社会を知る必要が起きたときに初めて父性の出番が来ます。

父性は力を持つための道具として漢文を身につける必要があったのです。

中央の権力者としての共通言語、むしろ国家中枢機構における業界用語としての漢文を身につけなければ、その組織の中で生き残っていくことができなかったと思われます。


母性と子供が古代のやまとことばを継承し、新たに生まれたひらがなでやまとことばを書き表してきたのです。

これは現代でも変わらないのではないでしょうか。

母性は学ばなくとも、子供ができれば子供のためのことばである赤ちゃん言葉がつかえます。
小学校へ行って漢字を習い始めるまでは、まさしくやまとことばでの会話をしています。

ひらがなですね。

漢字で見栄えのいい文字を表記する前に基本的なこと、本当に大事なことはひらがなで学んでいたんですね。