こうしてはじまった国語の開発は、情緒を表現する韻文の詩歌については、『万葉集』のように目ざましく成功しましたが、より実用的・論理的な散文の文体の開発については、百年たってもなかなか成功しなかったようです。
そのことを探るのにまたとない人物が紀貫之です。
彼は日本語(平仮名)の散文の発達において、三つの大きな貢献をしていると言うことができると思います。
一つ目は日本の物語文学の最初の作品である「竹取物語」。
二つ目は男が漢語で書いてた日記を、女の振りをして平仮名で書いた「土佐日記」。
三つ目は「古今和歌集」の編纂で、これに漢文の「真名序」と平仮名の「仮名序」を書いています。
「竹取物語」は「源氏物語」において「物語の出で来(いでき)はじめの親なる『たけ取(とり)の翁(おきな)』」と言われた通り、日本の平仮名による物語文学(散文)の一番最初の作品です。
「竹取物語」は作者不詳と言われていますが、「源氏物語」の「絵合(えあわせ)」の巻には冷泉(れいぜい)帝の御前のコンクールに出された「竹取物語」の絵巻ことをこのよう言っています。
「絵は巨勢相覧(こせのあふみ)、手は紀貫之書けり」。
これで見る限りは紀貫之の自筆の「竹取物語」があったのではないかと思われます。
「土佐日記」は、934年、土佐の任地から帰京する船旅の叙述ですが、紀貫之は「男もすなる日記といふものを、女もしてみんとてするなり」と書きはじめています。
「日記は漢字の中国語で、男が書くものだとというが、私は女だから仮名の日本語で書いてみるのだ」という意味です。
この言い方は、それまで女らしい叙情の韻文にしか向かないとされていた日本語(平仮名)を、男らしい叙事の散文に適用してみようという実験であることを宣言するものだと言えます。
『土佐日記』の中には漢字を「男文字」という言い方があり、これに対して仮名を「女文字」という言い方もあります。
十世紀の平安朝の意識では、まだ中国語(漢語)が表向きの男性文化であり、日本語(平仮名)は内輪の女性文化だったことが分かるところです。
「古今和歌集」における「仮名序」は日本語(平仮名)の散文です。
これが漢文をもとにして人工的に作り出されたものであることは「真名序」と「仮名序」を比較するとよくわかると言われています。
その書き出しの「やまと歌は、人の心を種(たね)として、万(よろづ)の言の葉とぞ成れりける」は、真名序の「夫和歌者、託其根於心地、発其華於詞林者也」の直訳です。
「仮名序」のほとんどの部分が「真名序」の日本語訳となっています。
そして散文としての「仮名序」の出来はよくありません、「真名序」がなければ意味が分からないところがたくさんあると言われています。
たとえば、「仮名序」に「難波津の歌は、帝の御初め也」という個所があります。
この歌が、王仁(わに)という華僑が仁徳天皇に献上した忠告の歌、
「なにはづに さくやこのはな ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな」
であることは見当がつきますが、「この歌が天皇の最初である」というのは、あまりに舌足らずで何を言いたいのか分かりません。
平仮名による散文はまだ実験段階であることがうかがえます。
古今和歌集仮名序
紀貫之から百年を経た十一世紀の初めには、紫式部による「源氏物語」が出現して平安朝の物語文学は最盛期を迎えます。
その「源氏物語」の中にも、散文としての文体が完成したとは言えない特異な形式が多くあります。
紫式部であっても、平仮名の散文の文体が確定しないのには苦労し、あれこれと工夫を続けていたと思われます。
日本語による散文の開発が遅れた最大の原因は、漢文から出発したことにあると思われます。
漢字には名詞と動詞の区別もなく語尾変化もありません。
文字間の関係を表す方法がありません。
一定の語順すらありませんので、漢文には文法がないということができます。
詩歌であれば文字数の制限を含めて一定の決まりごとがあるため、日本語(平仮名)による表記でもかなり正確に読み取ることができます。
このような特異な言語を基本にして、その訓読みという方法で日本語の語彙と文体を開発してきたわけですから、いつまでも不安定さを脱することなく論理的な散文としての文体が確定しなかったと思われます。
結局、明治維新による西洋文化の導入に伴った、文法構造のはっきりしたヨーロッパ語、英語の研究によってあらためて現代日本語が開発されるまで、散文の文体が確定することはなかったようです。
他の言語に比べて文法的な構成の規制の少ない日本語は、現代においてもその曖昧さにおいては指摘を受けているところです。
もともとが、文法という規則性を持たなかった言語に、後追い的に西洋文法に倣って規則性をあてはめたわけですから例外だらけになるのは当然のことです。
明治以降の現代日本語によって漢字仮名まじり文体と論理的な構成を見るようになって、はじめて福沢諭吉、夏目漱石らの表現が可能になったと言えるでしょう。