それは「日本書紀」です。
天武天皇が「日本書紀」の編纂を命じたのが681年のことですが、実に39年の歳月を費やして完成したのは元正天皇の720年だとされています。
「日本書紀」については最古の正史記としての価値とそこに記された文字から読み取れる文化的な価値があります。
実際にはのちに書かれた「続日本紀」の解説によって「日本書記」の存在が明確にされるところであり、編者も成立年代も決して正確であるとは言いがいたところでもあります。
また、39年もの編纂期間を費やしているため倭語の歌謡についてはその表記について何回かの方針変更をした形跡があるといわれています。
「日本書紀」現存本
「日本書紀」の現存本によれば、倭語の歌謡のほとんどは一音節に漢字一字の音訳方式がとられています。
仁徳天皇紀の物語の中では、仁徳天皇の恋敵である隼別皇子(はやぶさわけのみこ)のおつきの舎人たちが皇子をそそのかして仁徳天皇を殺させようとします。
その時に舎人たちが歌ったとされる歌があります。
「破夜歩佐波 阿梅珥能朋利 等弭箇慨梨 伊莵岐餓宇倍能 娑弉岐等羅佐泥」
「はやぶさは あめにのぼり とびかけり いつきがうへの さざきとらさね」と読みます。
意味としては「隼は、天に昇って飛びかかり、樹の上のササギを捕える」となって、隼別皇子がササギ(ミソサザイという小鳥のこと、仁徳天皇の本名が「おほささぎ」であることに掛けている)をとらえることをそそのかしています。
現存本では一音節に漢字一字の完全音訳として書かれていますが、のちの9世紀の平安朝の「日本書紀」の学者である多朝臣人長(おおのあそんひとなが)がこの歌を講義した記録が残っていす。
そこにはこのように伝えたと記録されています。
「隼鳥昇天兮 飛翔衝搏兮 鷦鷯所摯焉」
完全な漢詩となっています。
この歌の方が「日本書紀」の現存本にのっている音訳のものよりも、古い形であることは間違いないと思われます。
現存本の前にまだ漢詩の状態で編纂されていたものが存在していたのかもしれません。
編纂作業の進行中に表記方法が進歩して、倭語の完全音訳の方法が確立していったのではないかと考えられます。
最終段階では現存本のように一音節に一漢字の方法が採用されていったのではないでしょうか。
こうして新たに生まれた日本語はようやく漢語(中国語)を離れて、耳で聞いても多くの人にわかるようになっていきます。
次の段階は文字の体系を考察して、書く文字にも漢字を使わないようにすれば完全なる新しい国語として中国語からの独立を果たします。
そして2種類の仮名が誕生します。
音訳した漢字を草書体にして崩したた「平仮名(ひらがな)」と音訳した漢字の筆画の一部分だけを取った「片仮名(カタカナ)」が生まれるのです。
文字を持たなかった話し言葉であった倭語(やまとことばの原型)に、漢語の音を利用して独自の表音文字である平仮名と片仮名を作り出したのは何世代にも継承された作業の結果です。
表音文字としての漢字の草体化は8世紀から9世紀にかけて進んでいったと思われます。
草体化の進んだ漢字のことを平仮名の前段階として草仮名と呼んだりもします。
そして平仮名が公的な文書に現れるのが905年に勅撰和歌集として編纂された「古今和歌集」の序文である仮名序になります。
漢文で書かれた真名序と並列の形で扱われており、これをもって平仮名の完成とすることができるのではないのでしょうか。